聖徳太子の死因
数々の偉業を成し遂げたとされている聖徳太子ですが、その死因も色々な説が囁かれています。なくなった日の説が二つあり、日本書紀には推古29年2月5日とされていますが、その原因は記されていません。そもそも日本書紀とは、蘇我一族を倒して頂点に登り詰めた、藤原氏側の書いたものなので、信憑性はどうかわかりません。もう一つの説が、西遊記の三蔵法師のモデルになっているとされている、玄奘三蔵という高僧がなくなった日と同じ、推古31年2月22日とする説です。斑鳩宮でなくなり、母である間人皇后が眠っている河内磯長になる御陵へ運んだとされています。
死因の伝説
平安時代の書に「聖徳太子伝暦」というものがあります。それによると、聖徳太子は生前、「○年の春にいくから工事を急ぐように」と、自分の墓を造る工事を急がせたと言われています。運命の日の前夜、立派な家の出の正室が3人もいるのにも関わらず、町人の出の膳部妃を呼び、「あの世へ行くから一緒に行こう」と告げるのです。沐浴して身をきれいにした二人は翌朝、冷たくなって発見されるのです。高貴な出の正室がいるにも関わらず、聖徳太子と膳部妃は同じ場所で眠っているとされています。様々な説がありますが、この、自ら命を絶ったとする説が一番有力なのでしょうか。