政治家としての聖徳太子
聖徳太子は4年間、四国に湯治に行っていた期間があります。それまでは、蘇我馬子と聖徳太子とで政治を司っていて、太子は馬子の意見をよく聞き入れてもいました。ところが、四国から帰ってき太子は考え方がガラリと変わってしまっていました。仏教にのめり込んでいたこと、恵慈という高句麗の僧に影響を受け、新羅に反感を持つようになっていたのです。半新羅思想を持つ太子に、馬子は危機感を持ちます。あらゆる手を尽くして太子が新羅に攻め入ろうとするのを馬子は阻止しました。これにより、新羅征伐をあきらめた太子は、中央集権国家の確立に熱を入れるようになります。仏教の教えをもとにして十七条憲法を作り、冠位十二階を制定しました。このときに、「倭国」と呼ばれていた我が国を「日本(ひのもと)国」と改めたのです。