聖徳太子
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聖徳太子と仏教

聖徳太子は飛鳥時代の政治家であるとともに、大陸から仏教を本格的に広めた人物でもあります。蘇我氏と物部氏とのあらそいも、発端はこの仏教にあり、蘇我馬子と物部守屋の親の代から続いたのです。

日本への仏教伝来

仏教が日本に入ってきたのは、飛鳥時代の西暦552年と日本書紀には記されています。百済から釈迦仏の像と経論などが送られたのが最初とされています。しかし、聖徳太子の伝記などを見ると、538年ではないかとする説が、最近では強いようです。日本に仏教を取り入れるということは、一つの事件を起こすことになります。

事件の発端

当時の王である欽明が仏教の信仰について臣下らに聞いたときに、物部尾輿らは、これまでの神道を信仰するべきだと、仏教に反対しました。反対に蘇我稲目は西の国々は仏教を信じているので、日本も見習うべきだとして賛成意見だったのです。稲目は仏教を信仰すると言ったので、欽明は百済から送られた仏像と経論を与えました。それからの稲目は自分の自宅を寺として、毎日仏像を拝んだのです。それから流行やまいが蔓延し、尾輿らは、外国の神を拝んだので日本の神の怒りに触れたせいだとして、寺を焼いて仏像を堀に捨てるという手段に出たのです。こうして仏教の善し悪しを巡るあらそいが勃発し、稲目と尾輿の代から、子供である馬子と守屋の代まで受け継がれ、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼすまでこのあらそいは続いたのです。

聖徳太子と四天王

蘇我馬子と物部守屋のあらそいの中で、聖徳太子は蘇我氏の血縁であったために、もちろん蘇我氏側についていました。日本でも早くから信仰されていた四天王に、蘇我氏側の勝利を祈願します。見事勝利をおさめることができたら、感謝の意を込めて、寺を建立すると誓ったのです。結果は歴史にも残っている通り、蘇我氏が物部家を滅ぼした勝利で決着がつきました。これに感謝した聖徳太子は、現在の大阪府天王寺区である摂津国に四天王寺を建立したのです。

四天王とは

仏を守護する4人の守護神のことです。北は多聞天(毘沙門天)、南が増長天、東に持国天、西に広目天と、この4人の守護神を本堂の隅にそれぞれ配置し、中央の本尊を守護するというものです。

仏教普及に努めたのは聖徳太子

仏教を推進していた蘇我氏が、仏教を反対していた物部氏を滅ぼしたからといって、日本に仏教を広めたのは蘇我氏ではありません。仏教を日本に広く広めようとしたのはまぎれもない、聖徳太子でした。数々の寺の建立を見てもお分かりかと思いますが、太子が作った十七条憲法の内容も、仏教の教えから来るものでした。しかし、聖徳太子が手がけた十七条憲法は、役人達には理解してもらえなかったようです。それまで、それぞれが政治をおさめていたのに、仏教に基づく決まりの中で、中央集権国家がすんなり受け入れてもらえるはずもありません。そのため、仏教の教えを人々が学ぶ必要がありました。聖徳太子は、斑鳩宮に、仏教を教える学問所を作り、将来ある若い人材に仏教を学ぶ場を作ったのです。このようにして、仏教の布教につとめていた太子でしたが、志半ばで命を落とします。

受け継がれた太子の意思

志半ばでいってしまった聖徳太子ですが、それではどうやって仏教が日本に広まっていったのでしょうか。それは遣隋使達の努力によります。太子が命を落としてから日本に帰った遣隋使達は、若い役人や豪族の子供達に、仏教や儒教を説いていったのです。遣隋使の一因であった高向玄理と南淵請安でした。請安は塾を開き、仏教、儒教の教えを広めようと努めました。蘇我入鹿や中大兄皇子、中臣鎌足らもここで仏教と儒教を学んだのです。聖徳太子の意思は、しっかりと受け継がれていったのです。



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