戦国時代という時代は、日本人にとって非常にロマンチックに映る時代であるといえます。「信長の野望」や大河ドラマなどの戦国時代を扱った作品は、高い人気を広い年齢層から得ています。そのため、戦国時代に活躍した武将たちに関する異説は引きも切らず現れ続けているのです。
武田信玄の奇妙な噂
武田信玄は、天下統一に手が届きそうだった戦国武将の一人であったこともあって、さまざまな異説を幾つも生み出してきた人物の一人といえます。戦国武将にとって異説の存在は人気のバロメーターとも言えるのです。
武田信玄は諏訪湖に埋葬された!?
武田信玄は、徳川家康との「三方ヶ原の戦い」の最終戦となった「野田城の戦い」の後病没し、後継者であった勝頼に「我が死を三年隠し通せ」と厳命したといわれています。この際、信玄は勝頼にもう一つ遺言を残していたとする異説はいくつか存在しています。その一つが「信玄諏訪湖埋葬説」なのです。
墓所の定まらない武田信玄
信玄の墓所とされる場所は、実は数多く存在しています。「三年間の隠蔽」によって、武田信玄不在の証明となる墓所や遺体は巧妙に隠蔽されたのです。信玄が当時としては珍しい火葬に付されたのも、その一環であると考えることが出来ます。山梨以外では、真言宗の本山である高野山にも武田信玄の墓所がありますが、高野山の場合は中身の有無と関係なく大名や公家などの高い地位にあった人物の墓所を作っているようです。
なぜ墓所を特定させなかったのか
「三年隠すのであれば、身代わりを立てて引退と勝頼への家督継承を内外に行っておけばいいのでは?」と考える人もいるかと思います。しかし、戦国時代の日本では現代では考えられないほどに、諜報戦が盛んに行われています。忍者がもっとも活躍したのが戦国時代であるのも、情報こそが合戦における最重要事項の一つだからなのです。もしも、武田信玄の不在と勝頼が新しい当主となったことが上手に隠されていて、「甲斐の武田信玄、未だ健在なり!」と各大名に伝わったらどうなっていたでしょうか? おそらく、信長包囲網は崩れず、徳川家康を追い詰めていたことでしょう。まさに、信玄の病没は戦国時代の大きな転換点の一つとなったのです。
隠された武田信玄の遺言
江戸時代に書かれた「甲陽軍艦」では、信玄は勝頼に自分の遺体を諏訪湖に沈めるようにと厳命し勝頼はそれを実行した、とされています。実際に、諏訪湖の湖底をソナーで調べると武田家の家紋と同じ「菱形の構造物」が確認されています。10年以上に及ぶ調査の結果、この「菱形の構造物」は「湖底の窪みの影」であるとされました。しかし、現在でも諏訪湖埋葬説は武田信玄ファンに根強く息づいた説となっています。
本当に諏訪湖に埋葬されたのか
もし、この「菱形の構造物」が本当に武田信玄の入った棺であったのなら、勝頼の命令で病没から三年後には引き上げられていたのではないでしょうか。諏訪湖の最大水深は約7mで平均水深は4.7mなので、素潜りでいけない深さではないといえます。それに没後三年間は水の中にあったのなら、遺体の状態は悪くなっていないとも考えられます。もしも、諏訪湖の発掘プロジェクトを立案・実行したとしても、「武田信玄の遺体」ではなく「武田信玄が一時的に埋葬されていた形跡」しか見つからない可能性は高いと見られます。
武田信玄の影武者
日本が世界に誇る映画監督である黒澤明監督は、「影武者」という映画を製作しています。この映画は、野田城攻めの最中に命を落とした武田信玄の代わりを務めることになった一人の男を通して、戦国時代の悲哀や無常を描いた名作です。この映画の元となったのは「武田信玄が影武者を使用していた」という史実からなのです。
実在した影武者
武田信玄の影武者を務めたものとして有名なのは、信玄の弟の武田信廉です。信玄に近かった側近でさえ区別が出来ないほどに顔が似ていたといわれています。野田城の戦いの終結後、甲斐への帰路では信廉が信玄の影武者として振舞って「武田信玄の健在」をアピールしたと「甲陽軍艦」などに記されています。
影武者説が有名になったのは何時か
武田信玄の影武者がクローズアップされたのは、先述の「野田城の戦い」です。この合戦の最中、「信玄は野田城から聞こえてきた笛の音に心奪われ、そこを徳川方の鳥居三左衛門という人物によって狙撃された」というのです。この逸話と「風林火山を掲げる武田軍の不可解な長期戦」の二つが絡み合って、黒澤監督の「影武者」に結実したのです。実際のところ、影武者が武将の身代わりになることはあっても武将の役目を果たすことはほとんど無かったようです。現に信玄の影武者も務めた信廉は、勝頼との不和から長篠の戦いでは戦場放棄を行っています。現在の影武者への認識は、「影武者」という存在を「滅私奉公の鑑」「武士道の象徴」のように持ち上げたことから生まれた幻想なのではないでしょうか。
武田信玄の肖像画
テレビドラマでは、戦国大名や偉人を演じる役者と現代に伝わっている写真はまったく似ても似つかないことがほとんどであるといえます。テレビは視聴率を取ることが大事なので、演技力やルックスのほうが重要視されるという一面があるのは確かなのです。
武田信玄の肖像画は別人だった?
武田信玄の肖像画として有名なのは、武田晴信から武田信玄に代わった出家後のものがあります。髭をたくわえた禿頭の、ややでっぷりとした恰幅のいい体つきの壮年の姿が武田信玄の姿として記憶されている人も多いのではないでしょうか。しかし、この肖像画は近年の研究では別人ではないのかという疑惑が浮かんでいます。
別人説の根拠
まず、この肖像画における疑問点として挙げられるのが「この絵が描かれた時期の信玄は、労咳を病んでいたため痩せていたはず」であることがあります。また、信玄の死因となったのは胃がんであったといわれ、肖像画が描かれた時期にはすでに発症していたはずなのです。第二に、武田家の家紋は有名な「武田花菱紋」なのに肖像画には一切花菱紋が描かれていないのです。代わりに描かれているのは足利氏・畠山氏の「二引両紋」です。第三には、この肖像画を描いたのは能登の絵師である長谷川等伯なのですが、この絵を描いた時期は能登から一歩も外に出ていないのです。第四には、出家した信玄の肖像画のはずなのに後ろ髪が残っていることがあります。
肖像画の正体は誰なのか
これらの事実を総合して考えると、肖像画の主は当時の能登の領主である畠山義続ではないかと考えられています。「長谷川等伯の居住する能登」の領主で、「二引両紋の畠山氏」であることなどをから導き出された答えとしては、正解にかなり近いといえます。また、信玄は39歳で出家して以来肖像画を描かせなかったといわれているので、信玄の肖像画とされていたのは間違いであったというのが最近の学会の趨勢を占めているようです。しかし、この肖像画にはいまだ謎は多く畠山義続説で確定というわけではないようです。
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