武田信玄が生きた16世紀という時代は、私たちにはいまいち想像しにくい時代であるといえます。何しろ、私たちの時代から500年近くも遡った時代であり、想像できないほどの政治や生活の違いがあり、ドラマで脚色された内容でしか知らない時代なのです。この時代は、一体どのような出来事が起こっていたのでしょうか?
武田信玄の生きた時代
武田信玄が生きたのは1521年から1573年までのことです。この時代は、14世紀から続くルネサンス文化とルターとカルヴィンによる宗教改革がヨーロッパを激震させていた時代であるといえます。アメリカはまだ本格的な移民が始まっていなかった時期なので、世界の中心はいまだヨーロッパにあったのです。
ヨーロッパの文化の動き
16世紀のヨーロッパは、キリスト教の捉え方が大きく変わる時代であったといえます。民衆や貴族は厳粛な戒律の元に信仰しているのにも関わらず、司祭などの層が腐敗を続けていることや、王族の婚姻にまで口を出すカトリックの姿勢など、硬直化した関係への不満が高まっていたのです。一方、レオナルド・ダ・ヴィンチなどに代表されるルネサンス文化は、貴族の庇護の下で栄え社会の中身さえも変えようとしていました。
鉄砲伝来とルネサンス文化の関係
ルネサンス文化は、シルクロードを介して中国からもたらされた新しい技術や文化がヨーロッパに伝えられ、発展したという側面を持っています。この時、中国からもたらされたのがルネサンス三大発明のうちの「羅針盤」と「火薬」です。羅針盤は、航海技術を発達させコロンブスのアメリカ発見を助け、火薬は大砲や火縄銃の開発へ繋がりヨーロッパの戦術論を大きく書き換えていくことになります。つまり、1543年に種子島に漂着した商船から伝えられた火縄銃の元祖は中国にあったのです。
火縄銃が日本に与えた影響
火縄銃が織田信長や斉藤道三などの戦国武将に注目されたのは、威力の強さだけが理由ではありません。鉄砲伝来以前、日本の戦場における飛び道具は投石か弓矢でした。今川義元や徳川家康を「海道一の弓取り」と褒めるのは、弓兵の使い方が巧みであるからなのです。投石も、ダビデとゴリアテの話にあるように非力な者でも当たり所がよければ大男を倒すことが出来ます。しかし、投石にしても弓矢にしても一定以上の腕前が無ければ脅威になりえないものです。その点、火縄銃は火薬の爆発音と威力で相手の兵を驚かせると同時に射撃に適した構えが出来ていれば初心者でも十分に効果を発揮できます。要するに、歩兵が槍から火縄銃に持ち変えると、とたんに弓兵に並ぶ戦力に早変わりするのです。合戦というものは、敵の兵を一人残らず打ち倒すのではなく、敵大将の首を取ってしまえば終わるものです。火縄銃を上手に運用すれば、合戦を長引かせずに速く終わらせることが出来ることに信長や道三は目を付けていたといえます。
生まれるのが10年遅かった伊達政宗
戦国武将の中で、もっとも天下に近く遠かったといえるのが奥州の独眼竜こと伊達政宗です。伊達政宗が生まれたのが1567年なので、生まれた時点ですでに織田信長は足利義昭を室町幕府第14代将軍に立てて、上洛していた時期です。正宗が元服したのは1577年のことでしたが、この時点ですでに武田信玄はこの世を去っています。正宗が正室である愛姫を娶った1579年には織田信長の天下統一も大詰めを迎えていました。つまり、伊達政宗は相当の実力を持ちながらも天下統一のレースに参加できなかったのです。もしも10年生まれてくるのが早ければ、隣国の上杉・北条氏は常に脅かされ日本の歴史は大きく変わっていた可能性があります。しかし、現実は非情で伊達政宗は豊臣政権下でようやく天下統一に参加できたのです。そのため、関が原の戦い以降は天下人にもっとも近かった徳川家康を討つ計画を何度と無く実行に移そうとしていたようです。しかし、正宗は徳川打倒を実行に移せないまま、徳川の外様大名としては異例の信頼を受けるご意見番として徳川幕府に仕えることになりました。
キリスト教とヨーロッパの動き
16世紀のイングランドの国王であるヘンリー8世は、1509年に王位に即位すると同時に婚約者であるキャサリン・オブ・アラゴンと結婚しました。しかし、一つだけ問題があったのです。キャサリンはヘンリー8世の兄であったアーサー王太子の元妻だったのです。最初の結婚相手であったアーサーはキャサリンとの結婚の数ヵ月後にこの世を去っています。しかし、キャサリンの持参金に引かれたヘンリー8世とアーサーの父であるヘンリー7世は、持参金を返還しないためにもヘンリー8世とキャサリンを結婚させようとしたのです。カトリックでは兄弟の妻であった女性と結婚することを禁じていました。ヘンリーとキャサリンの結婚は特例として認められることになります。しかし、キャサリンは女児一人しか産めなかったことからヘンリー8世の心はキャサリンから離れていきます。
カトリックとの対立から生まれたイギリス国教会
カトリックは、家庭に関して非常に厳密な戒律を持っているといっても過言ではありません。この当時は、現代では珍しくない離婚が固く禁じられていたのです。ヘンリー8世はキャサリンを王妃の座から退けたいため、カトリックを離脱しイギリス国教会を設立し、キャサリンと離婚してしまいます。つまり、離婚のために新しい宗派を設立したといえるのです。前述するキャサリンとの婚約問題などでカトリックと対立していたがために取った行動であるともいえます。
オランダの独立を巡る動き
16世紀のヨーロッパは、いまだ戦火に包まれていたといえます。この時代に成立していた国のほとんどには姻戚関係が結ばれていたものの、互いの領土を巡り水面下の争いを続けていたのです。この当時、特に火種の中心となっていたのがオランダです。この当時にも強い勢力を持っていたローマ帝国の支配下にあったオランダは、独立の気運を高めていました。16世紀のローマ皇帝カール5世の退位とともにスペイン系・オーストリア系に勢力が分割し、オランダはスペインの領土として扱われることになります。
スペインとオランダの対立の理由
しかし、オランダ独立の大きな原動力となったのがカトリックとプロテスタントの対立であったといえます。オランダは、プロテスタントが多い土地であったのですが、当時のスペインの王であったフェリペ2世はカトリック信者だったのです。そのため、フェリペ2世はプロテスタントの弾圧を開始します。これに自分たちの自治も無ければ信教の自由さえないオランダの民衆は反発、「この国はオラんだ!」とばかりに独立のための戦争をスペインに対して起こしたのです。このスペインとの独立戦争は休戦をはさみ80年にわたって続けられたため、「八十年戦争」と呼ばれます。この八十年戦争の結果、オランダは「ネーデールラント連邦共和国」としての自治を勝ち取ったのです。
コペルニクスの地動説
後に、ガリレオ・ガリレイが裁判にかけられることになる「地動説」は1543年にコペルニクスによって唱えられました。しかし、コペルニクス自身は地動説を30年前に完成させていたのです。コペルニクスが地動説を発表したのは没する直前なのです。ガリレイの見るまでもなく、当時の科学にはキリスト教の意図が大きく絡んでいたといえます。教義と異なり、科学的に正しい学説が広まると、聖書は「嘘を教えていた」とされキリスト教の権威は失墜するからです。実際に、バチカンが天動説を廃し地動説を認めたのは1992年のことです。この決定は1633年のガリレイの裁判の結果を覆すためであったといわれています。一説には、コペルニクスに地動説の発表を促したのは当時のローマ法王であったといわれています。つまり、「聖書の記述」と「科学的発見」は対立するものではないと考えられていたようです。
|