武田信玄VS今川・北条

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日本の戦国時代は、まさに「生き馬の目を抜く」がごとき激動の時代であったといえます。昨日の友は今日の敵、油断してると後ろからバッサリだ! そんな情勢にも関わらず、13年間に渡って同盟関係を維持した武田信玄と今川義元と北条氏康には一体どのような思惑の元に関係を構築していたのでしょうか?

武田信玄 VS 今川・北条

戦国時代において、大名同士の同盟といった結びつきのほとんどは姻戚関係を根拠とするものであるといえます。つまり戦国大名の子供は、大名の後継者であると同時に国を生かすための道具であったのです。甲斐で姻戚関係による同盟を推進していたのは信玄の父・武田信虎で、信玄も戦国の習いとして姻戚関係による同盟を形成していくことになります。

武田信玄が繋いだ姻戚関係

武田信玄の正室である三条の方は名門公家の三条家の出身ですが、公家と親交の深かった今川義元からの仲介を受けて武田家に嫁いでいます。今川義元は、信玄の妹である定恵院を正室としているので、信玄の義弟に当たります。しかし、定恵院は天文19年(1550年)に病没したため、義元の娘である嶺松院を信玄の長男である義信に嫁がせて姻戚関係を維持しています。信玄の長女・黄梅院は北条氏康の嫡男である北条氏政の元に嫁いでいますし、五女・松姫は織田信長の長男・信忠と婚約させています。松姫の妹である菊姫は上杉謙信の後継者となった上杉景勝の元に嫁ぎ、勝頼の代の武田家と上杉家を結びつける役割を果たしています。信玄が繋いだ武田氏の姻戚関係は、天下統一の役に立ったとはいえませんが、武田氏の命脈を繋ぐのには役立っていたといえます。

今川義元の人物評

武田信玄の義弟となった今川義元は、映画やテレビなどの分野ではあまり好人物として描かれているとはいえない人物です。戦国大名の中でもトップクラスの名門である今川氏は、公家とも交流が深く公家のようなお歯黒をつけていたとされています。「公家かぶれの大名であったため馬に乗れず輿に乗って移動していた」「臆病者だった」というのが定説となっていますが、これらのエピソードは徳川幕府成立後に織田家の元家臣が記した本が基準となっているため、都合よく脚色されていると考えた方が良いようです。実際の義元は「海道一の弓取り」の異名を取るほどの凄腕の指揮官であったようです。戦国時代においては、刀よりも槍や弓の上手が尊ばれたのです。また、今川氏の領地も義元の代には現在の静岡から名古屋までに達していて、当時は天下に最も近い戦国大名と考えられていたようです。

北条氏康の人物評

「関東の雄」と呼ばれた北条氏は、戦国時代随一の実力と勢力を誇る大名であったといえます。戦国時代の日本では、関東圏は独立した存在として考えられていたのです。後に豊臣秀吉が北条氏を攻めたのは、北条氏の関東における存在感の大きさを無視できなかったためと考えられています。北条市初代の北条早雲は、叔母が嫁いでいた今川氏の家督争いの解決を足がかりに関東を平定した下克上の見本といえる人物でした。早雲の孫である北条氏康は、北条氏を最も栄えさせた大名であったといわれています。税制をはじめとする行政の改革など、武力のみならず国力の強化にも努め、「領民含めて一枚岩の北条」を構築した名君であったといえます。

武田信玄はなぜ今川・北条と同盟を結んだのか

武田信玄は、なぜ今川義元と北条氏康の二者と同盟を結んでいたのでしょうか。まず、第一には「背後の守りを磐石にしたい」という思惑があったといえます。信玄は信濃などにその勢力を伸ばしていましたが、軍を率いて国攻めを行っている間というのは、どうしても本国の守りが手薄になるのです。今川氏・北条氏は甲斐に隣接する地域の大名であるため、同盟を結ぶことで本国に攻め込まれる可能性を減らす必要があったのです。第二に、「戦力支援を見込んで」という願望があったといえます。戦国時代は、農民もいざとなれば刀や槍を手にとって合戦に参加していたとはいえ、一国あたりの戦力は有限だったのです。戦力を増やすためには他所から貸してもらうのが一番手っ取り早かったのです。第三には「同盟による領土の将来的な統一」があります。戦国時代は同盟を結ぶ場合は姻戚関係を前提とするので、誰かの後継者が居なかった場合領地を他の大名に横取りされないようにする目的で、姻戚を結んだ子供に分ける可能性が生まれます。つまり、戦国大名の同盟関係とは打算で結ばれるものであったのです。

甲相駿三国同盟の締結

武田信玄が、今川義元・北条氏康と同盟を結んだのは天文23年(1554年)のことです。もともと今川・北条は姻戚関係や北条氏の成立などの理由から仲がよかったのですが、義元が信玄の姉である定恵院と結婚したことで今川氏が武田寄りに転向したことで北条氏と対立し始めていました。そこで信玄は今川・北条の関係回復に尽力し、三者の結びつきを強めていきました。しかし、天文19年(1550年)に定恵院が32歳で病没したことで、武田・今川間の姻戚関係が失われてしまったのです。そこで三者は新しい姻戚関係を構築し同盟を結ぶことにします。この同盟を「甲相駿三国同盟」、または同盟を締結したとされる場所にちなんで「善徳寺の会盟」といいます。

同盟で誰が一番得をしたのか

この三国同盟は、武田氏にとっては上杉謙信との「川中島の戦い」で有効に働いています。武田軍は今川氏から借り受けた兵を軍に組み入れて、上杉軍と戦っています。しかし、甲斐・信濃が海に面していないという弱点はこの同盟ではカバーされません。今川氏は、武田・北条を守りに活かして尾張への侵攻に尽力しやすくなったというメリットを得ています。北条氏は、武田氏と手を組んで関東と越後の上杉氏ににらみを利かせやすくなっています。ただ、京都へ上洛して抜け駆けしにくくなったというデメリットを背負い込んでいます。この三国同盟において一番得をしたのは今川氏であるのは確かなことです。

甲相駿三国同盟の崩壊

しかし、この甲相駿三国同盟は永禄3年(1560年)に崩壊することになります。今川義元が桶狭間で織田信長に討ち取られたことによって、義元に比べてパッとしない息子の氏真が跡を継ぐことになったのです。武田信玄はこれを好機と見て、義元の娘・嶺松院を娶っていた嫡男の義信を廃嫡に追い込み嶺松院を離縁してまでも、駿河取りを企みます。これに対し、氏真は北条氏と手を結び武田氏に対抗していきます。武田信玄は、三河を取り戻した徳川家康と手を結び、氏真を駿河から追い出して今川氏を滅ぼしたのでした。

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