甲斐の虎武田信玄

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応仁の乱に端を発する室町幕府の権威失墜によって始まった戦国時代は、実力があれば農民でも武士として身を立てることも、大名となって一国一城の主になることも不可能ではない完全実力主義の時代でした。武田信玄の生家・武田氏は鎌倉時代から続く源氏の中でもトップクラスの名家でしたが、戦国時代の波に乗り天下統一の野望を燃やす有力大名としてその存在を他国に知らしめてきたのです。

甲斐の虎・武田信玄

「甲斐の虎」の異名を取った武田信玄は、戦国時代に生まれるべくして生まれた英雄の一人であるといえます。戦国時代以前は、朝廷や公家の生活様式を真似ることで権力に近づこうとするほどに骨抜きになっていた武家は、戦国時代の到来とともにアドレナリンを噴出させ、鎧兜を身にまとい乗馬し、弓を手に取って刀を振るい、天下の二文字に近づいていく益荒男へ立ち返っていきました。では、この戦国時代とはいったいどのような理由で到来した時代だったのでしょうか?

戦国時代前夜の動き

戦国時代は、政治の中心が公家から武家に完全移行する過程にあった時期であるといえます。公家が政治の中心となっていたのは、鎌倉幕府の成立までの間であったといえます。鎌倉幕府の成立は、それまでの中央集権的な政治形態と公家の専制政治を覆したのです。1336年に足利尊氏が朝廷から「征夷大将軍」の称号を受けて樹立した室町幕府は、200年の歴史の中ですっかりと堕落しきっていました。1441年に独裁政治を敷いていた6代将軍足利義教が家臣の赤松満祐に反逆され討ち取られた「嘉吉の乱」以降、将軍としての足利家の権威は地に落ちた物となってしまいます。義教の後を継いだ義勝の妻・日野富子の専制政治はやがて後継者争いから1467年の応仁の乱へとつながり、法は乱れ人心は荒廃し、新しい時代の扉を押し開くことになるのです。

戦国時代の幕開け

戦国時代は、室町幕府が有名無実の存在になっていったことで発生した弱肉強食の時代であるといえます。応仁の乱は、「将軍家が常に正しい」ということではないこと、「隙があればいつでも将軍の座を狙っていい」ということを守護大名たちに教えたのです。10年に渡って続いた応仁の乱が終息した後も室町幕府は存続しましたが、幕府に従う守護大名は幕府の意図とはまったく違う意思を持ち始めていました。「将軍を自分の傀儡にして権力を裏から操ること」、「自分が征夷大将軍になること」、「他の守護大名を倒し勢力を伸ばすこと」など、勢力争いのための手段と目的を考え始めたのです。もはや室町幕府は、今までの一枚岩の武家政治の頂点ではなくなっていたのです。

戦国時代の下克上

戦国時代は、「下克上によって始まり、下克上に象徴された時代」であるといえます。下克上は、「格下の者が格上の者を倒して地位を得る」という意味で、応仁の乱の原因となった嘉吉の乱も下克上の一種といえます。戦国時代の発端とされている「明和の政変」は守護大名の細川政元が10代将軍義材を廃し、11代将軍義澄を擁立した政権の乗っ取りで、現在では下克上の一種と考えられています。特に、関東の雄と呼ばれ恐れられた北条氏を興した北条早雲は下克上の成功者の代表格として有名です。早雲はコネと知略を駆使して大名に取り入り、その優れた手腕で関東を押さえてしまったのです。武田信玄も、父・信虎を甲斐から追放して家督を継いだので、一種の下克上であるといえます。戦国時代は、主君も家臣も隙を見せられなかった時代だったといえます。

信玄誕生以前の武田氏

武田信玄は、甲斐国を治めていた甲斐源氏の出です。しかし、源氏の家系といえ権力闘争とは無縁ではいられなかったのです。信玄誕生以前の甲斐国と武田氏はどのような争いの中にあったのでしょうか?

武田氏の動き

室町時代の武田氏は、「甲斐守護職」というそれなりに高い地位にありました。しかし、嘉吉の乱と前後して下克上の動きが全国的に起こると、武田氏の座を狙う武家が次々と現れだしたのです。武田氏も、甲斐守護職の座を争った逸見氏との権力闘争に打ち勝ったとはいえ、いつ取って代わられるかわかったものではないのです。そのため信玄の曽祖父に当たる武田信昌の代から、果てしない権力闘争を続けてきたのです。

信玄の父・信虎

武田信玄の父である武田信虎の代になると、甲斐国内の権力闘争は武田氏同士のものへと変化していきます。信虎は父である武田信縄の急逝によってわずか14歳で武田氏のトップに立つことになります。当時、大人とみなされる元服を行ったのは男子が12歳になってからのことですから、家督を継いだ頃の信虎は周囲から若輩者と見なされていたのは間違いないことといえます。信縄は、父・信昌が築いた武田氏の地位を完全に固めた辣腕の大名であったと言います。そして、その後を継いだのがわずか14歳の信虎となれば、武田氏当主の座を奪いとることは造作もないことと、周囲が考えだすのは無理もないことなのです。

信虎、甲斐を統一する

家督を継いだ信虎に対して、最初に牙を向いたのは叔父に当たる油川信恵でした。信恵は、かつて兄の信縄と熾烈な家督争いを繰り広げていたのですが、信縄が家督を継いでからは和睦していました。しかし、目の上のたんこぶだった信昌と信縄が居なくなり、あとはそこいらの洟垂れ小僧と変わらない信虎のみとなれば、心の奥底に眠らせていた野心も目覚めるというものです。信恵の心境を野球に例えれば、「あと一球でゲームセット」という感じだったのでしょう。しかし、野球も合戦も開けてみるまでわからないのが常です。この合戦が武田氏総領としての初陣である信虎にとって、相手が叔父であろうと何であろうと勝つ以外の目標はないのです。最低でも勝たなければ武田氏の総領としての資格は無いといえます。そして、信虎は瞬く間に信恵の居城に攻め入り、信恵を一家もろとも滅ぼしてしまいます。この鮮烈なデビュー戦を飾った信虎は、甲斐の有力武家に対して合戦と婚姻の飴と鞭両面作戦を展開し、甲斐の国を治めてしまいます。たびたび隣国・駿河の今川義元からの牽制もあったのですが、信虎は巧みな手腕で今川と和睦し自分の地位を固めていったのでした。

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