武田信玄ゆかりの地

武田信玄の埋蔵金

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日本の歴史において、銀行のシステムが定着したのは江戸時代のことです。徳川幕府が各大名の勢力を削ぐために行った参勤交代や土木工事の費用の肩代わりなどで各大名の財政が圧迫されたため、武士階級向けの貸し金業が興ったのです。では参勤交代などが無かった江戸時代以前の大名たちは、どのように蓄財を行っていたのでしょうか。そうした疑問の中から生まれたのが「埋蔵金伝説」なのです。

武田信玄の埋蔵金

埋蔵金は、その名のとおり「埋めて保管しておく金」です。埋蔵金として隠されるのは、基本的に金や銀などの延べ棒といった貴金属です。戦国時代の大名は、国内の財政を切り盛りする立場にあったので、その気になれば紙幣の発行や貨幣価値の変更を行って財源を水増しすることが可能です。つまり、埋蔵金は「長期間にわたって価値が落ちない貴金属を隠し、将来的に掘り出して使う」ことを目的としているのです。

日本の埋蔵金伝説

日本の各地には、多くの埋蔵金伝説が残されています。江戸時代が終わったのが130年ほど前、江戸時代に入ったのがさらに250年ほど前のことです。この400年近くの間に、「打倒明治政府」「打倒徳川幕府」を考えて各大名が資金を隠しておく可能性は「有るとも無いともいえない」のです。もっとも有名なのはテレビ番組で二年以上にわたって長期間の発掘を行った「徳川埋蔵金」ではないでしょうか。「井伊直弼によって企図され、小栗上野介によって赤城山に隠された」とされ、「明治政府が捕らえた小栗上野介を早々にしょけいしたのも徳川埋蔵金のありかを知るためだった」といわれる徳川埋蔵金は、多くの人を魅了してきました。しかし、実際のところ見つかったという報告は一つもありません。もしあったとしても、横須賀造船所の建設のために幕府に多大な出費をさせた小栗上野介が、日本の近代化のために回していたというのが妥当なところではないでしょうか。

埋蔵金はどのような理由で隠されるのか

では、埋蔵金は何のために隠されることになっているのでしょうか? 基本的には「再起のための軍資金」を誰にも取られないようにするためです。戦国時代は、「国が取られても命まで取られることはない」ということは別段珍しいことではありませんでした。場合によっては、他の大名の配下になって再起を待つということもあったのです。再起するためには、自分についてくる兵を養う食料と戦うための武器が必要になります。兵を集め必要なものをそろえるためにも、落ち延びる時に持ち出した軍資金を隠しておく必要があるのです。第二には、「徳川幕府に隠れて蓄財したお金を隠すため」があります。現代で言えば脱税です。徳川幕府成立後、幕府は政権維持のため各大名から力を奪う必要がありました。そのために行われたのが、城の改築費用の肩代わりや参勤交代です。合戦を行うには、軍を維持するお金が必要になるのです。財政負担を増やすことで、合戦を行えなくしていったのです。しかし、各大名も財政を安定させる必要があるわけです。黒字になれば、余剰金を積み立てていざという時のために使えるようにしておきたいのが人情というものです。しかし、幕府側にしてみればそういった蓄財は討幕のために使われる軍資金になりうるので、抜き打ちで各藩の財政を調査します。下手に幕府から不審がられればお家取り潰しの危険もあります。そこで、幕府に内緒で蓄財したお金を、埋蔵金にして隠したとも考えられるのです。

武田信玄の埋蔵金とは

武田信玄は甲州金を作り、徳川幕府でも採用された貨幣制度を整備しました。このように豊富な金脈を背景にした財政策が取れるようになったのは、実は信玄の代からです。信玄の先代である信虎の代までは、金を得るためには川から砂金を集める手法が一般的だったのです。信玄は海外で開発された当時最新の鉱山開発技術や鉱石洗練技術を取り入れることで、甲斐に眠っていた多くの金脈を発掘したのです。そんな信玄が、埋蔵金という手法による蓄財を考えなかったはずは無かったといえます。

信玄の埋蔵金にまつわる噂

「武田信玄の埋蔵金」と呼ばれる埋蔵金は、山梨県の各地に眠っていると考えられています。しかし、伝説とは裏腹に埋蔵金にたどり着いたものはほとんどいません。信玄の場合、「諏訪湖に大量の甲州金を沈めた」「軍用道路として整備した棒道に埋めた」「配下の穴山梅雪に命じて隠させた」などの伝説があります。しかし、これらの伝説は伝説の域を越えず未だ発見されていないようです。穴山梅雪の隠した埋蔵金には、「家康の伊賀越えの際に、別行動をとっていた穴山梅雪を倒した盗賊が穴山梅雪の書付を見つけ、埋蔵金の三分の一を手に入れた」という話が残っていますが、残されているはずの埋蔵金の三分の二が未だ発見されていないため謎に包まれています。

ぶどう園で見つかった甲州金

現在は甲州市に合併された勝沼町は、山梨県でも有数のぶどうの産地として知られています。勝沼町にあるぶどう園の中には観光地として整備されているところも多く、そんなぶどう園の一つから、それが見つかったのは1971年のことです。ゴミを埋めるための穴を掘っていた時に、「ひるも金」と呼ばれる室町幕府時代の金貨2枚と甲州金18個が発見されたのです。すわ「武田信玄の埋蔵金発見か!?」と騒ぎになったようですが、武田氏家臣の勝沼氏の隠し財産であったと見られています。

もし埋蔵金を見つけたら…

もしも、あなたが些細な偶然から埋蔵金の地図を見つけ、スコップを片手に担いで地図に示された場所にたどり着き、埋蔵金を掘り当ててしまったらどうすればいいのでしょうか? 埋蔵金には埋蔵金のルールがあるのです。

埋蔵金を発見した場合

埋蔵金を発見した場合、まず警察に「拾得物」として届けなければなりません。もしも埋蔵金を発見したことを隠せば「拾得物横領罪」が成立し、埋蔵金発見者の権利は剥奪されます。また、文化財としての価値があった場合は、警察と合わせて文化庁へ申し出なければなりません。文化財に指定される可能性が有る以上、埋蔵金の破損や消失などを防ぐ処置を取る義務が文化庁と発見者にはあるのです。

埋蔵金発掘の対価

埋蔵金が発見され、警察に届けられた後は6ヶ月間に渡って所有権者が名乗り出るのを待ちます。武田信玄をはじめとする戦国大名の埋蔵金の場合、必ず誰かしら子孫という所有権者がいます。所有権者が名乗り出て、正当な所有権があると認められると埋蔵金は所有権者に渡ります。発見者は所有権者と協議の上で、埋蔵金の総額の5~20%の「報労金」を受け取ることが出来ます。この報労金は、落し物と同じく全額の一割が相場となっています。もしも、所有権者が見つからなかった場合は埋蔵金を発見した場所の地権者と発見者で折半します。

埋蔵金が文化財指定された場合

もしも、埋蔵金が歴史的に見ても重要である「文化財」に指定された場合は、文化財の価格に相当する「報償金」が国から支払われます。この報償金の扱いは所有権者が見つからなかった場合と同じです。

埋蔵金の価値

埋蔵金の価値は、基本的に金・銀の相場で決定されます。つまり相場の変動によって大きく価値が変わることもありうるのです。しかし、古銭には付加価値が付くものです。もし「文献などで存在は証明されているが、今まで見つかったことない貨幣」が発見された場合、その価値は天井知らずに上がると考えることが出来ます。

武田信玄の埋蔵金
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