武田信玄誕生

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武田信玄誕生以前の甲斐は、信玄の父・信虎によって強力に結束されようとしていました。しかし、その手腕のすべてが肯定できるものでなかったのは確かなようです。武田信玄はいかにして、信虎から家督を受け継いだのでしょうか?

武田信玄の誕生

武田信玄は1521年11月3日に、武田信虎とその正室である大井の方の間に長男として生まれました。幼名を勝千代(または太郎)、元服後は晴信と名乗ります。信玄の誕生の報を聞いた信虎は、今川氏親・福島正成の軍と交戦中だったのですが飛び上がらんばかりに喜び、劣勢に追い込まれていた状況をひっくり返し今川・福島軍を撃退してしまったといわれています。

信虎と信玄の確執

武田信玄は、母・大井の方が招いた岐秀玄白禅師からの英才教育を受け、戦国武将の中でも高い水準の教養を習得し、将来の武田家を率いるのにふさわしい人物に成長していきます。しかし、信虎は自分より利口な信玄を遠ざけ、信玄の4歳年下の弟である信繁を可愛がるようになり、信玄を飛び越して信繁に家督を譲ることを考え始めます。かつて、信虎が叔父の信恵と戦うことになったのも、信虎の祖父・信昌が長男の信縄から家督を次男の信恵に移そうと考えたことがきっかけであるといわれています。しかし、この企みは信昌の病没で潰え、信縄と信恵は和睦しています。戦国時代は、こうした親の欲目がいらぬ家督争いの原因となることは珍しくなかったのです。信虎と信玄の関係は目に見えて悪化していきました。信玄が16歳の時の初陣では信玄は信虎が攻めあぐねた城を、計略を用いて見事に落としたのですが、信虎は凱旋した信玄に一瞥をくれただけで褒めもしなかったといわれています。

なぜ信虎と信玄は不仲だったのか

なぜ、信虎は自分自身の嫡男である信玄を疎んじていたのでしょうか。ひとつには、「親でも子でも信用しない」という戦国時代の習性があったからといわれています。日本で儒教的な道徳観が根付いたのは、江戸時代以降のことです。生き馬の目を抜くような戦国時代においては、「自分の親であろうが子供であろうと、身内はいつか自分の権力を脅かすものである」というのは一種の常識だったのです。実際、信虎までの武田氏は身内での権力争いに終始しています。初めて生まれた息子であっても、信虎にしてみれば気の置けぬ相手であったのではないでしょうか。第二には、「年若い信繁が可愛かった」という感情があったのではないでしょうか。実際、長男・長女という立場にある子供は弟や妹が生まれると「親からの愛情が与えられなくなった」と感じることが往々にしてあります。信虎の親としての愛情の行き場が信繁だけに行ってしまい、長男であった信玄が自分の気を引こうと武勲を上げることさえも疎ましく感じていたのではないでしょうか。

武田信玄、甲斐国の君主に

武田信虎という武将は、少なくとも良い主君であったわけではないようです。家督を継いでからずっと合戦に明け暮れ、自分の基盤を固めるためには非道なことも行っていたようです。天文10年(1541年)の武田信玄が数えで21歳の時に、信虎は信玄の姉の嫁ぎ先である駿河の今川義元の下に娘を訪ねていきます。これを好機と見た信玄と弟の信繁、そして甘利虎泰や板垣信方などの重臣たちは団結して甲斐と駿河の国境を封鎖し、信虎が帰ってこられないようにして信虎を甲斐から追放してしまいます。信虎の誤算は、信玄の家督争いの相手となるはずだった弟・信繁が、信玄と仲がよかったことです。同じように弟と家督争いをした大名には織田信長や伊達政宗などが居ますが、たいていの場合争った弟側が滅ぼされています。この信虎追放は人の絆を大切にしていた武田信玄ならではのエピソードであるともいえます。何しろ、信虎は二度と甲斐に足を踏み入れることはできなかったものの、命までは取られずに81歳という当時としては長寿を全うしているのですから。

武田信玄、信濃へ進攻

信虎を追放し、完全な一枚岩での体制を確立した信玄は天下統一に向けての行動を起こします。信虎追放後に隣国・信濃から甲斐に攻め込んできた小笠原長時の軍を打ち破り、信濃国への挙兵のための口実を手に入れました。信濃の領主であった諏訪頼重は、信玄の妹である禰々(ねね)を妻とする信玄との姻戚関係にある大名でしたが、この婚姻を主導したのが信虎であったのが裏目に出たと考えられます。武田信玄は信濃に対する政策を、信虎の懐柔策から強攻策へ転換したのです。諏訪頼重を打ち破り、信濃の大半を併合した信玄はいよいよ天下統一への号令をかけるのです。

武田信玄と諏訪御料人

諏訪氏を打ち破った武田信玄は、諏訪頼重の娘であった諏訪御料人を側室として迎え入れます。小説や軍記では、この婚姻の立役者となったのが信玄配下の軍師・山本勘助であったといわれています。勘助は、諏訪氏の血脈を残すことで信濃の民衆を味方につけることを画策していたといわれていますが、勘助以外の家臣は「武田氏を滅ぼすことになる」と反対したといわれています。諏訪御料人は後に武田信玄の跡継ぎとなる武田勝頼を産み、25歳の若さでこの世を去ったと伝えられています。実はこの諏訪御料人に関する史料はほとんど残されていないため、歴史小説やドラマではさまざまな脚色がなされています。諏訪御料人のイメージを固めたのは、1988年に放映された大河ドラマ「武田信玄」における湖衣姫と、湖衣姫を演じた南野陽子であるといえます。この湖衣姫という名称は、ドラマの原作となった新田次郎の小説「武田信玄」において登場したもので、2007年に放送されている大河ドラマ「風林火山」は、原作小説における井上靖が考案した「由布姫」になっています。

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