武田信玄の奇妙な噂

ホーム
サイトマップ
HOME>>プライバシーポリシー

SEOクリエイティブソリューションズ(以下「当社」と言います)は、当社の運営するサイトにおける「情報・サービス等」をお客様に安心してご利用いただくため、お客様のプライバシーの保護に最大限注力してまいります。
ここでは、お客様に関する個人情報がどのように収集され、どのように使用されるか、また当社における個人情報についての考え方等を記載しております。
当社はお客様のお問合せ時に、氏名、メールアドレス、電話番号、住所等の個人情報の保護に関し、以下の取組みを行っております。当社の運営するサイトの訪問者(以下、ユーザー)は、当社の運営するサイトの利用に際して、当プライバシーポリシーに同意したものとみなします。

1.個人情報の取得について

当社は、適正に個人情報を取得するものとし、偽りその他不正な手段によって個人情報を取得することは致しません。

2.その他情報の取得について

当社が運営するサイトを通じて、第三者が配信する広告サービスにアクセスした場合、当該の第三者が掲げるプライバシーポリシーに基づいて、クッキーやウェブビーコンなどによって情報収集の目的でユーザーの情報が取得・提供されることがあります。


●広告配信事業者としての Google は cookie を使用して広告を配信しています。

●Google で cookie を使用することにより、インターネットにおけるご自身のサイトや他のサイトへのアクセス情報に基づいてユーザーに広告を配信することが可能になります。


3.個人情報の取り扱いについて

当社は、個人情報を以下の利用目的の達成に必要な範囲内で適切に取り扱います。
以下に定めのない目的で個人情報を利用する場合、あらかじめご本人の同意を得た上で行ないます。

(1)お見積のご依頼・ご相談に対する回答及び資料送付

(2)各種サービスに関する情報提供

5.個人情報の開示について

当社の運営するサイト上で得られた個人情報は、お客様の同意がない限り、個人情報を第三者に開示したり、販売・貸与することはありません。ただし、公的機関から要請があった場合や、法令に特別の規定がある場合等は、この限りではありません。

6.プライバシーポリシーの変更

当社は、個人情報保護を図るため、法令等の変更や必要に応じて、本プライバシーポリシーの内容を改定する場合がございます。変更後の本方針については、当社が別途定める場合を除いて、当サイトに掲載した時点から効力を生じるものとします。

■免責事項

当社が運営するサイトに掲載しているあらゆる情報につきましては、調査・確認のうえで万全を期しております。また、常に最新の情報を提供することに努めておりますが、その内容について保証するものではありません。当社が運営する全てのサイトの利用、閲覧によって生じたいかなる損害について一切の責任を負いません。

■著作権

当社が運営するサイトに掲載しているコンテンツは、当社が所有しております。書面による許可なく、掲載されている記事、イラスト等の全てのコンテンツの無断複写、転載を禁じます。

■お問い合わせについて

当社が運営するサイトに記載されていない情報につきましては、ご自身でお調べいただけますようお願い致します。また、それらに関するお問い合わせには対応いたしかねます。

■禁止事項

弊社が運営するホームページをご利用するにあたり、以下の行為を禁止します。これらに違反した場合、また、その行為により弊社に損害が生じた場合、損害賠償を負うものとします。

●画像・レシピ・イラストの無断使用

●文章・コンテンツの無断使用

●第三者および弊社の財産、プライバシー等を侵害する行為およびその恐れのある行為

●第三者および弊社に不利益もしくは損害を与える行為およびその恐れのある行為

●公序良俗に反する行為およびその恐れのある行為

●犯罪行為ならびに犯罪行為に結びつく行為およびその恐れのある行為

●虚偽の申告や届出を行うことおよびその恐れのある行為

●営業活動ならびに営利を目的とする行為およびその準備を目的とする行為

●第三者および本会の名誉もしくは信用を毀損する行為およびその恐れのある行為

●コンピュータウィルス等有害なプログラムを使用・提供する行為および恐れのある行為

●法律、法令もしくは条令に違反する行為およびその恐れのある行為

■その他

ご利用者様と弊社との関係につきましては日本法が適用されるものとします。万一、ご利用者様と弊社との間に訴訟の必要が生じた場合には、函館地方裁判所を第一審の専属的合意管轄裁判所とします。

武田信玄の奇妙な噂

武田信玄は、天下統一に手が届きそうだった戦国武将の一人であったこともあって、さまざまな異説を幾つも生み出してきた人物の一人といえます。戦国武将にとって異説の存在は人気のバロメーターとも言えるのです。

武田信玄は諏訪湖に埋葬された!?

武田信玄は、徳川家康との「三方ヶ原の戦い」の最終戦となった「野田城の戦い」の後病没し、後継者であった勝頼に「我が死を三年隠し通せ」と厳命したといわれています。この際、信玄は勝頼にもう一つ遺言を残していたとする異説はいくつか存在しています。その一つが「信玄諏訪湖埋葬説」なのです。

墓所の定まらない武田信玄

信玄の墓所とされる場所は、実は数多く存在しています。「三年間の隠蔽」によって、武田信玄不在の証明となる墓所や遺体は巧妙に隠蔽されたのです。信玄が当時としては珍しい火葬に付されたのも、その一環であると考えることが出来ます。山梨以外では、真言宗の本山である高野山にも武田信玄の墓所がありますが、高野山の場合は中身の有無と関係なく大名や公家などの高い地位にあった人物の墓所を作っているようです。

なぜ墓所を特定させなかったのか

「三年隠すのであれば、身代わりを立てて引退と勝頼への家督継承を内外に行っておけばいいのでは?」と考える人もいるかと思います。しかし、戦国時代の日本では現代では考えられないほどに、諜報戦が盛んに行われています。忍者がもっとも活躍したのが戦国時代であるのも、情報こそが合戦における最重要事項の一つだからなのです。もしも、武田信玄の不在と勝頼が新しい当主となったことが上手に隠されていて、「甲斐の武田信玄、未だ健在なり!」と各大名に伝わったらどうなっていたでしょうか? おそらく、信長包囲網は崩れず、徳川家康を追い詰めていたことでしょう。まさに、信玄の病没は戦国時代の大きな転換点の一つとなったのです。

隠された武田信玄の遺言

江戸時代に書かれた「甲陽軍艦」では、信玄は勝頼に自分の遺体を諏訪湖に沈めるようにと厳命し勝頼はそれを実行した、とされています。実際に、諏訪湖の湖底をソナーで調べると武田家の家紋と同じ「菱形の構造物」が確認されています。10年以上に及ぶ調査の結果、この「菱形の構造物」は「湖底の窪みの影」であるとされました。しかし、現在でも諏訪湖埋葬説は武田信玄ファンに根強く息づいた説となっています。

本当に諏訪湖に埋葬されたのか

もし、この「菱形の構造物」が本当に武田信玄の入った棺であったのなら、勝頼の命令で病没から三年後には引き上げられていたのではないでしょうか。諏訪湖の最大水深は約7mで平均水深は4.7mなので、素潜りでいけない深さではないといえます。それに没後三年間は水の中にあったのなら、遺体の状態は悪くなっていないとも考えられます。もしも、諏訪湖の発掘プロジェクトを立案・実行したとしても、「武田信玄の遺体」ではなく「武田信玄が一時的に埋葬されていた形跡」しか見つからない可能性は高いと見られます。

武田信玄の影武者

日本が世界に誇る映画監督である黒澤明監督は、「影武者」という映画を製作しています。この映画は、野田城攻めの最中に命を落とした武田信玄の代わりを務めることになった一人の男を通して、戦国時代の悲哀や無常を描いた名作です。この映画の元となったのは「武田信玄が影武者を使用していた」という史実からなのです。

実在した影武者

武田信玄の影武者を務めたものとして有名なのは、信玄の弟の武田信廉です。信玄に近かった側近でさえ区別が出来ないほどに顔が似ていたといわれています。野田城の戦いの終結後、甲斐への帰路では信廉が信玄の影武者として振舞って「武田信玄の健在」をアピールしたと「甲陽軍艦」などに記されています。

影武者説が有名になったのは何時か

武田信玄の影武者がクローズアップされたのは、先述の「野田城の戦い」です。この合戦の最中、「信玄は野田城から聞こえてきた笛の音に心奪われ、そこを徳川方の鳥居三左衛門という人物によって狙撃された」というのです。この逸話と「風林火山を掲げる武田軍の不可解な長期戦」の二つが絡み合って、黒澤監督の「影武者」に結実したのです。実際のところ、影武者が武将の身代わりになることはあっても武将の役目を果たすことはほとんど無かったようです。現に信玄の影武者も務めた信廉は、勝頼との不和から長篠の戦いでは戦場放棄を行っています。現在の影武者への認識は、「影武者」という存在を「滅私奉公の鑑」「武士道の象徴」のように持ち上げたことから生まれた幻想なのではないでしょうか。

武田信玄の肖像画

テレビドラマでは、戦国大名や偉人を演じる役者と現代に伝わっている写真はまったく似ても似つかないことがほとんどであるといえます。テレビは視聴率を取ることが大事なので、演技力やルックスのほうが重要視されるという一面があるのは確かなのです。

武田信玄の肖像画は別人だった?

武田信玄の肖像画として有名なのは、武田晴信から武田信玄に代わった出家後のものがあります。髭をたくわえた禿頭の、ややでっぷりとした恰幅のいい体つきの壮年の姿が武田信玄の姿として記憶されている人も多いのではないでしょうか。しかし、この肖像画は近年の研究では別人ではないのかという疑惑が浮かんでいます。

別人説の根拠

まず、この肖像画における疑問点として挙げられるのが「この絵が描かれた時期の信玄は、労咳を病んでいたため痩せていたはず」であることがあります。また、信玄の死因となったのは胃がんであったといわれ、肖像画が描かれた時期にはすでに発症していたはずなのです。第二に、武田家の家紋は有名な「武田花菱紋」なのに肖像画には一切花菱紋が描かれていないのです。代わりに描かれているのは足利氏・畠山氏の「二引両紋」です。第三には、この肖像画を描いたのは能登の絵師である長谷川等伯なのですが、この絵を描いた時期は能登から一歩も外に出ていないのです。第四には、出家した信玄の肖像画のはずなのに後ろ髪が残っていることがあります。

肖像画の正体は誰なのか

これらの事実を総合して考えると、肖像画の主は当時の能登の領主である畠山義続ではないかと考えられています。「長谷川等伯の居住する能登」の領主で、「二引両紋の畠山氏」であることなどをから導き出された答えとしては、正解にかなり近いといえます。また、信玄は39歳で出家して以来肖像画を描かせなかったといわれているので、信玄の肖像画とされていたのは間違いであったというのが最近の学会の趨勢を占めているようです。しかし、この肖像画にはいまだ謎は多く畠山義続説で確定というわけではないようです。

-->
copyright (c) 2008 - 2013 武田信玄の生涯 All Rights Reserved.