武田信玄の最期

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「栄枯必衰の理」というように、栄華を尽くした者には必ず衰える時がやってきます。それは「甲斐の虎」武田信玄も例外ではありません。「桶狭間の戦い」以来、めきめきと頭角を現してきた織田信長よりも、先に天下を統一するという夢は志半ばで潰えることになるのです。

武田信玄の最期

織田信長は、「桶狭間の戦い」で武田信玄と同盟関係にあった今川義元を討って以来、破竹の勢いで勝利を重ね天下に号令をかけようとしていました。信長は、三好三人衆によって牛耳られていた室町幕府に目をつけ、足利義昭を15代将軍として擁立したのです。義昭は13代将軍である義輝の弟だったため出家して僧籍に入っていたのですが、三好三人衆が首謀した永禄の変によって義輝が絶命したことによって還俗することになったのです。信長は、義昭を担ぎ出すと、三好三人衆の傀儡となっていた14代将軍の義栄を廃して義昭を15代将軍にしたのです。これによって、信長は幕府との太いパイプを構築したのです。

義昭と信長の対立

義昭の将軍就任によって、信長は上洛を果たし天下統一のレースにおいて一歩先んじることに成功しました。この時期、武田信玄は信長との姻戚関係を結び同盟関係になっていました。信玄の後継者である武田勝頼と信長の養女である遠山夫人を結婚させ同盟関係を保っていましたが、遠山夫人が25歳の若さで夭折してしまいます。信長は、可愛がっていた遠山夫人の不幸を嘆くと同時に武田氏との同盟の消滅を恐れ、信玄の娘・松姫と信長の嫡男である信忠を婚約させます。その一方で、義昭と信長の関係は悪化の一途をたどっていました。義昭自身、恩人である信長を尊敬していたのですが、信長は室町幕府を存続させておく気がなかったことがわかり関係が断絶したのです。信長は着々と天下統一に歩を進めるなか、義昭は武田信玄をはじめとする有力大名や、かつて幕府の実権を巡って対立した三好三人衆などに書状を送りつけていたのです。

武田信玄と徳川家康の対立

武田信玄は、桶狭間の戦いで同盟を結んでいた今川義元が討ち取られると、駿河への侵攻を行おうとしていました。しかし、この時期は越後の上杉謙信と関東の北条氏康が睨みを利かせていたこともあり、駿河への侵攻に反対していた長男の義信を廃嫡し自害に追い込んでまでも欲しがった、駿河へは手を出すことが出来なかったのでした。一方、信玄の父で信玄による甲斐追放以来、娘婿である義元の元で庇護されていた武田信虎も、義元の跡を継いだ今川氏真との折り合いが悪くなっていました。信虎は孫にあたる氏真を廃して駿河を乗っ取ることまで考えていたようですが、企みはすぐに露見し駿河を追われてしまいます。武田氏の失敗を尻目に、駿河を手にしたのが徳川家康だったのです。家康と信玄は一時協力関係にあったのですが、駿河をめぐって対立することになります。

信長包囲網の完成

元亀元年(1570年)、義昭からの書状を受けとった武田信玄は信長の義弟である浅井長政らとともに信長包囲網を形成し、信長を滅ぼすための好機を待つことになります。元亀3年(1572年)10月3日、信玄は表向きには信長との同盟を保ちながら信長と友好関係にある家康の領地である三河に攻め込みます。信長が朝倉義景を攻めている最中のことです。武田信玄の挙兵とともに浅井長政もまた信長を裏切り、信長包囲網はその網をじりじりと狭めていったのです。

一言坂の戦い

武田信玄は、当面の目標を家康に定め三河に進軍します。その勢いは凄まじく、10月13日だけで家康の城の大半を陥落させています。家康は信長からの援軍を頼りにしていましたが、一方の信長も浅井・朝倉連合との戦いで疲弊しており、わずか三千の兵を家康への援軍に送るのが精一杯でした。10月14日に、家康軍は武田軍と一言坂で交戦状態になります。これが「一言坂の戦い」です。このとき家康軍は信長からの援軍を含めて一万二千、一方武田軍は北条氏からの援軍を入れて総勢三万という大軍勢を形成していました。戦術論では、「相手が一人に対して三人で攻めれば勝てる」と言われています。徳川軍は、猛将と謳われた本多忠勝の活躍によってどうにか浜松城まで後退することに成功します。

三方ヶ原の戦い

しかし12月22日には、武田軍の勢いは止まらず家康軍は家康自らが出陣し士気を高めるまでに追い込まれてしまいます。これが世に言う「三方ヶ原の戦い」です。しかし家康の出陣は一言坂の戦い以来の戦力差を覆すにいたらず、家康軍は多大な犠牲を払い敗走することになってしまいます。家康は、浜松城に戻るとすべての門を開き、かがり火を焚く「空城の計」を打ちます。「空城の計」とは兵法三十六計のひとつで、隙をわざと作ることで相手に何か企みがあるように思わせる計略です。この計略は見事に当たり武田軍は撤退していき、家康は命を拾うことになります。

武田信玄最期の時

武田信玄はそのまま三河で年を越し、元亀4年(1573年)に入ると同時に野田城攻めを開始します。この野田城を落とせば残るは家康の居城である岡崎城だけになるのです。しかし、信玄は一ヶ月も時間をかけて野田城攻めを行います。武田軍の戦力は依然三万人を数える大軍勢で、野田城の守りはわずか五百人という少数であるというのに、です。この「野田城の戦い」には不可解な点が多く存在しています。一説には野田城から信玄が狙撃されたとも言われ、この狙撃説を元にして黒澤明監督の「影武者」が製作されています。とにかく、この野田城の戦いは最終的に水を断たれた野田城の城主である菅沼定盈が降伏したことで終結します。しかし、武田軍は岡崎に攻め込むことなく甲斐へと帰還してしまいます。理由は、信玄の病状が悪化したためだったのです。信玄は、甲斐への帰路についていた4月12日に53年の生涯に幕を閉じることになります。

信長包囲網の破綻

一方、信長包囲網は浅井と組んでいた朝倉義景が突然やる気をなくしてしまい、武田信玄や浅井長政からの再三の要請を無視してしまいます。包囲網に参加していた延暦寺も信長によって焼き討ちされ、包囲網はじわじわと崩壊を始めていました。そこに信玄の逝去の情報が入ると、包囲網は完全に瓦解してしまいます。浅井を滅ぼし、朝倉を討った信長は足利義昭を京都から追放し足利幕府を終わらせたのです。

武田信玄の遺言とは

もしも徳川を破り、返す刀で信長に迫れば上洛していれば天下を取ることも夢ではなかった戦国武将・武田信玄は、志半ばで病に倒れてしまいました。信玄は、病床で自分の後継者に指名した勝頼を呼び寄せ、遺言を残しています。信玄の遺言とはいったいどのような内容だったのでしょうか?

人との絆を大切にすること

武田信玄は、当時の戦国武将としては珍しく堀や石垣を備えた城を建設せず躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)という館で、すべての政務や軍務をこなしたことで知られています。城は大名の力を示すバロメーターになると同時に、合戦の際には砦として機能する司令基地でもあります。武田信玄が城を建設しなかった意味は勝頼への遺言にも示されています。信玄は、「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」という言葉を遺したとされています。この言葉は、「大名を支えるのは白亜の城ではなく、領民や家臣といった人である。情で繋がった人の絆は味方を増やすが、仇や憎しみで繋がった人の絆は敵を増やす」という意味を持っています。父・信虎を追放した武田信玄は、信虎を甲斐に戻すことはなかったものの生活費などを送金していたといわれ、信玄独自の思想が見て取れます。

「信玄の病没を三年秘す」

また、信玄は勝頼に「わしが没したことは三年隠せ。もしも何かあれば上杉を頼れ」と言い残しています。武田信玄と上杉謙信は生涯に五度戦ったライバルでしたが、信玄は謙信の人柄を悪く思っていなかったようです。信玄は「謙信は義理堅いので、頼られたら無碍にはしない」と考えていたようです。また、三年の時を置けというのは信玄が病床に伏していたのがちょうど織田・徳川攻めの真っ最中だったことがあります。家康の喉元まで刃を突きつけた状態であるからこそ、信玄の逝去を隠し「武田信玄健在」をアピールして士気を落とさぬように戦えという最後のアドバイスを勝頼に送ったのです。しかし、勝頼は信玄のアドバイスを守らず野田城の戦いの後は三河から完全に兵を引き払ってしまいます。もしも、勝頼が信玄の健在を装って三河を攻め続けていたのならば織田信長も本能寺を待たずに歴史の中で倒れていたのではないでしょうか。

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