武田信玄VS上杉謙信

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武田信玄の生涯を語る上で外せないのが信玄のライバルである「越後の虎」上杉謙信です。一つの森に二匹の虎は住めません。どちらかが倒れるまで戦わなければならないのです。謙信には「越後の龍」という異名もありますが、龍と虎は天地を割って争いあう運命にあるといえます。武田信玄と上杉謙信は、いったいどのような理由から対立し、争いあったのでしょうか?

武田信玄 VS 上杉謙信

上杉謙信は自らを「毘沙門天の生まれ変わり」と信じ、「毘」の一文字を旗印にしていたと言われています。毘沙門天とは別名を多聞天といい、仏教では帝釈天の四方を守る四天王の一人とされています。毘沙門天は悪鬼邪鬼を打ち倒す役目を持つ仏様でもあり、上杉謙信は自分自身を、「戦国という悪鬼の跋扈する乱世を平定する存在」であると考えていたようです。

上杉謙信とはどんな武将か

上杉謙信は享禄3年(1530年)1月21日に、越後守護代の長尾為景の次男として生を受けました。謙信の幼名は虎千代、元服すると長尾景虎と名乗ります。謙信には兄である長尾晴景が居たため、寺に入り僧侶としての教育を受けることになります。しかし、越後国内でも戦乱の嵐は起こっていました。為景が傀儡政権として擁立していた越後守護の上杉定実が、為景の意思に背き自分の後継者に伊達実元を当てようとしたことなどで、越後国内では有力豪族などによる内紛が起きていたのです。景虎は病弱であった晴景に代わって豪族の反乱を制圧し初陣を飾り、越後国内での地位を確立していきます。

上杉の後継者になる

上杉定実には後継者が居なかったことから、定実が没すると上杉家は断絶してしまい越後守護の座が空位になるという不安がありました。そこで定実は虎景を養子にして越後守護の座を譲ることを決心します。同時に、長尾家の家督も病弱で将来に不安がある晴景から景虎に譲らせ、越後を景虎の下で一枚岩にすることにしたのです。これが天文17年(1548年)のことです。この景虎の家督相続に反発し兵を挙げた長尾政景を降伏させるなど、景虎は自身の権力を磐石なものにしていきます。天文22年(1553年)には上洛を果たし、越後守護・上杉虎景の存在をアピールしています。永禄4年(1561年)には、関東上杉氏の総領であった上杉憲政の養子となり、憲政から関東管領の地位を敬称しています。

武田信玄との対立

後の上杉謙信となる上杉景虎が武田信玄と対立するようになったきっかけは、信玄が行った信濃侵攻がそもそもの始まりでした。信濃から追われた村上義清とともに景虎の叔父であった高梨政頼が、血縁を頼って景虎の居る越後に逃げ延びてきたのです。合戦というものは、戦国時代でも現代でも仕掛ける側に何らかの大義名分が無ければなりません。大義名分が無ければ、他国からの干渉を受けたり敵軍の援護に回られたりで情勢が変動するからです。景虎は武田信玄と一戦交えるための大義名分を二人から貰ったのです。これが、5度に渡って行われる「川中島の戦い」の端緒となったのです。

上杉謙信を名乗ったのは?

長尾景虎が上杉謙信になったのは川中島の戦いの後です。自身を「毘沙門天の生まれ変わり」と称し、幼いころは寺に入っていた景虎も武田信玄と同じく仏門に帰依する武将でした。元亀元年(1570年)に法名を賜り、上杉謙信となったのです。

川中島の戦い

武田信玄と上杉謙信の伝記において、クライマックスとなっているのが「川中島の戦い」です。特に、もっとも大規模に行われ多大な犠牲を払った第四次川中島の戦いは幾度と無くテレビや映画、小説などで取り上げられています。なぜ、武田信玄と上杉謙信は川中島の戦いを起こしたのでしょうか?

元は信濃の取り合いに始まった

川中島の戦いとは信玄が併合した信濃を取り返し、謙信を頼って落ち延びて来た村上義清と高梨政頼の二人にそれぞれの領地を返すことを目的にしたものです。しかし、それ以上に謙信も信玄と同じように信濃が欲しかったのです。京都に近い信濃を得れば、天下統一への橋頭堡を得ることが出来るのです。それに、戦国時代においては領地を広げて領民を栄えさせることが一番の正義であるといえます。謙信にしてみれば、信濃を手に入れた後は、村上・高梨に領地を分け残りの部分は自分のものに出来るわけですから非常にうまみのある合戦であったといえます。つまり、上杉謙信が武田信玄に対して兵を挙げたのは利益を得るためと大義名分を果たすためなのです。

第一次川中島の戦い

第一次川中島の戦い(布施の戦い)は、天文22年(1553年)に行われました。この時、謙信は北信濃に残っていた武将たちを支援する形を取っています。せっかく手に入れた大義名分を有効に活用しようという思惑と、自分の戦力を減らさないための妙策であったといえます。越後からの支援を受けた村上義清は、自分の居城であった葛尾城を奪還することに成功します。しかし、武田信玄率いる武田軍は直ちに体勢を立て直すと村上氏の城を続けざまに陥落させ、村上義清を追い返してしまいます。こうなると、謙信自らが出るしかありません。武田VS上杉の形勢に変化したこの合戦は一進一退を続け、10月には両軍とも自国に引き上げています。

第二次川中島の戦い

第一次川中島の戦いと前後して、謙信は上洛し朝廷から「従五位下弾正小弼」の地位を任じられます。この時、朝廷から「私敵治罰の綸旨」を許されます。これは、「この綸旨を受けた者にケンカを売る=朝廷に弓引くこと」という証明で、いわば「錦の御旗」です。この綸旨によって謙信は信玄を「朝敵」として征伐できるということになったのです。そして、天文24年(1555年)に第二次川中島の戦い(犀川の戦い)が起こります。朝廷からの許しを得ている謙信に対し、信玄は幾つもの策謀を張り巡らせた上でこの合戦に臨んだのです。信玄の策謀は、「北条・今川との軍事同盟を結ぶ」「越後で謀反を起こさせる」というもので、国内の平定に力を割かせて謙信の戦力を削ごうとしていたのです。第二次川中島の戦いでは交戦はなく信濃川系の犀川を境界線にして両軍が200日以上に渡ってにらみ合いを続けるというものでした。にらみ合いというのは、いわば前哨戦で先に目をそらしたものが負けるのです。だから、武田軍も上杉軍も200日近くも目をそらせないでメンチを切りあっていたのです。しかし、にらみ合っている間も武田軍は食糧補給線の確保に悩まされ、上杉軍は「裏切り者がまだ居るんじゃないか」という疑心暗鬼に悩まされることになります。10月15日になると、さすがに周りが気を揉んでくるようで今川義元による和睦が成立し、第二次川中島の戦いは終結します。

第三次川中島の戦い

第二次川中島の戦いが終わった時点で、上杉謙信が得たものは何もありませんでした。信濃を獲得して天下統一レースで頭一つ抜け出せるかと思いきや、武田信玄にしてやられたりで信濃どころか、村上・高梨の旧領地も取り返せない有様です。弘治2年(1556年)、謙信は突然「隠居して高野山に出家する!」と言い出し家出を図ります。さすがにこれは越後国内が騒ぎになり、家臣たちが家出先の高野山にまで謙信を迎えに行くことになっています。一方、武田信玄は信濃侵攻以来対立していた北信濃の武将たちへの懐柔政策を続け、多くの武将たちを味方につけることに成功します。もちろん越後への牽制も忘れず、謙信に愛想を尽かした大熊朝秀をそそのかして反乱を起こさせています。しかし、この策略は失敗し大熊は甲斐の国に逃げ込んでくることになります。こうなってくると謙信も信濃がどうとか村上・高梨がどうとか言っていられません。弘治3年(1557年)4月、上杉軍が兵を挙げ第三次川中島の戦い(上野原の戦い)が始まり、次々と武田側の城を落としていきます。しかし、今回は武田軍が上杉軍との交戦を避けるように動いたため、決着がつけられないまま時間だけが過ぎていきます。このころ、京都の室町幕府では13代将軍の足利義輝が権力を取り戻すためあちこちの合戦を行っている大名に向けて和睦の仲介を精力的に行っていました。武田信玄は「和睦するから信濃守護の座をくれ」と義輝に返答、謙信も「将軍が出てきたなら」と和睦を受け入れ第三次川中島の戦いは集結します。これによって武田信玄の信濃支配は正当化され、謙信の「私敵治罰の綸旨」を盾にした信濃出兵は有名無実化することになります。

第四次川中島の戦い

「川中島の戦い」の中でも最大の規模となった第四次川中島の戦い(八幡原の戦い)は、唯一の総力決戦となりました。永禄2年(1559年)に、関東上杉氏の上杉憲政から関東管領の地位を譲り受けた上杉謙信は、関東の雄・北条氏康への攻撃を開始します。総勢0万人に膨れ上がった上杉軍は、一時は北条氏の居城である小田原城を包囲するのですが北条氏は武田信玄へ同盟に基づく援護を要請し、「北条氏の本拠を包囲する上杉軍」という構図を「上杉軍を挟撃する北条・武田軍」というものに書き換えてしまうのです。ここにきて謙信は「武田が居たのでは関東に手を出せない、故に潰す」という結論に至ります。信玄も「何かやろうとするたびに上杉が来るのではやりにくくてしょうがない」と、決戦を志します。これが、第四次川中島の戦いの前提となるのです。

川中島の戦い最大の決戦

第四次川中島の戦いは、これまでの三度の戦いとは質も量も違う本格的な合戦となりました。投入された人員は上杉軍が約一万八千人、武田軍が約二万人という今までの倍になっています。永禄4年(1561年)8月、上杉軍は善光寺に補給所を設け本陣を妻女山に張ります。この報を受けた武田軍は千曲川を挟んで妻女山と向かい合う茶臼山に陣を張ります。上杉側は、補給所の善光寺に向かうためには茶臼山の真正面を抜けていかなければならなくなり、武田側は撤退するには妻女山を横目に抜ける経路を使わなければなりません。つまり、互いに逃げることが出来ないのです。膠着状態に陥った戦況を打破するために、千曲川を渡り海津城に入っていた武田信玄は軍師・山本勘助が提案した部隊を二分し、啄木鳥が木を叩いて餌となる虫をおびき出す「啄木鳥戦法」による攻撃を採用します。同年9月9日、信玄は腹心の高坂昌信に別働隊を任せ本隊を八幡原に向かわせます。一方、謙信は海津城から上がる煙が多く昇っていることに気づき、武田軍に動きがあることを看破します。謙信は一切物音を立てず、相手に悟られぬよう千曲川を渡り八幡原に移動するよう命じます。ちょうどこの時川中島一帯には濃霧が立ち込めていたため、武田軍は上杉軍の動きを察知することは出来ませんでした。翌10日午前8時ごろ、八幡原で鉢合わせした武田軍と上杉軍の決戦が始まります。

混戦の八幡原

武田軍は挟撃作戦である「啄木鳥戦法」のために兵力は半減していたため、苦戦を強いられることになります。上杉軍は「車懸かりの陣」という、部隊を円形に配置して攻撃したら右回りまたは左回りに動いていくことで、攻撃に参加している部隊と攻撃に参加していない部隊を作り出して戦闘の最中に効率よく休憩を取らせることができる陣形を用い、武田軍を苦しめたのです。対する武田軍は部隊を翼のように左右へ大きく展開する「鶴翼の陣」を敷き、車懸かりの陣を飲み込むように対応します。しかし、車懸かりの陣によって体力を温存できた上杉軍の勢いをとめられず、混戦状態に突入していきます。この時、武田軍は山本勘助や信玄の弟・武田信繁などの有力武将を失っています。一方、高坂昌信の指揮する別働隊は合戦開始から遅れること4時間、八幡原に到着します。途中で上杉軍の後方部隊と交戦していたため到着が遅れたのですが、ほぼ健在の別働隊が到着したことで形勢は逆転します。当初の目論見どおり、挟撃に成功した武田軍は勢いを盛り返します。混戦の間を縫って武田本陣に突入した謙信は、信玄目掛けて愛刀を四度に渡って振るったものの、信玄は傍らの軍配ですべて受け止めてしまったといわれています。この武田信玄の軍配は現物が残されているのですが、大相撲の行司が使用するものとは違い、総鉄製の非常に重量のあるものです。信玄がもしもこの軍配で攻撃に転じていたら、謙信はひとたまりも無かったのではないでしょうか。機を逃した謙信は、武田軍が息を吹き返したこともあり全軍を善光寺まで撤退させます。武田軍も午後四時には追撃を取りやめます。上杉方三千余り、武田方四千余りの犠牲を出した第四次川中島の戦いはこれにて決着を見ます。

第五次川中島の決戦

永禄7年(1564年)の第五次川中島の戦いは、第四次の八幡原の戦いに比べれば軽いものだったといえます。飛騨で三木良頼と江馬時盛の対立が発生し、武田が江馬側に付き上杉が三木側に付いたことによって、再び対立することになるのです。ただ、第五次の場合は「俺は動かないからお前も動くなよ」という姿勢を川中島で見せ合うような内容だったため、交戦はなかったようです。この第五次川中島の戦いは60日間に渡ってにらみ合いを続け、三木良頼が武田家の武将・山県昌景らに攻め込まれて降伏したことで決着します。これが、歴史上最後の武田信玄と上杉謙信の対立となります。

武田信玄と上杉謙信の関係

武田信玄と上杉謙信は、戦国時代においてまさに「両雄並び立たず」という言葉が似合う関係であるといえます。ともに仏門に学び、戦国時代屈指の戦上手であり高い政治手腕を持った大名であった二人は一体どのような関係だったのでしょうか。

謙信が一方的に信玄を嫌っていた説

一説には、謙信は信玄のことが嫌いだったので五度に渡って対立したと考えられています。理由としては、信玄が行った父・信虎の追放や謙信配下の武将をあおって反乱を起こさせる策略などが謙信の道徳観や美意識にそぐわなかったからといわれていますが、戦国時代の道徳観では下克上は普通のことですし、策略自体は兵法に通じた謙信が認めないはずが無い性質のものといえます。この説は、現代的な感覚から唱えられた説といえます。

一種の友情があった説

俗に「男と男の友情は拳で語り合うもの」といいますが、信玄と謙信は五度の合戦の中で互いに互いを認め合い、友情のようなものを感じていたのではないかといわれています。しかし、実際のところ信玄と謙信が直接顔を合わせたのは川中島の戦いのみです。腹を割って話し合ったわけでもない以上、この説の確証は薄いといえます。

謙信女性説に基づく恋愛感情説

上杉謙信には、女性説が存在しています。謙信の病名が婦人病の一種である「大虫」であったこと、必ず一ヶ月に一度強い腹痛で引きこもることがたびたびあったこと、スペインの国王フェリペ二世宛の書簡の中で「(謙信の養子の)上杉景勝の叔母」と記述されていたことなどが証拠として挙げられています。仮に、謙信が女性であったとしたら信玄が五度に渡る川中島の戦いの決着をつけようとしなかったことや、たびたびの離間計略で越後に仕掛けていたことなどの謎が解けるような気がしないでもありません。

「敵に塩を送る」の話

川中島の戦いの後、永禄3年(1560年)に「桶狭間の戦い」が置き信玄の同盟者であった今川義元が織田信長に討ち取られます。これを好機と見た信玄は、義元の後を継いだ今川氏真を倒し駿河を取ろうとします。反対した信玄の長男・武田義信を廃嫡し自害に追い込んだ上で、信玄は駿河侵攻に乗り出したのですが同盟を破棄された北条氏康と氏真が新しい同盟を締結し、信玄と共同歩調を取っていた徳川家康が北条氏と組んだことで駿河侵攻が水の泡になってしまいます。今川氏と北条氏は結託し、甲斐に塩を流通させないという「塩攻め」を開始します。この塩攻めは甲斐の周辺国にも通達され、たちまち甲斐は塩不足に悩まされてしまいます。

武田信玄に塩を送った上杉謙信

塩は人間にとって必需品であるといえます。身体の70%を水分で構成している人間は、体内の水分量を保つために塩が必要になるのです。武田信玄の領地である甲斐は山間の国なので、海から塩を得ることが出来ません。陸地でも岩塩が取れることがあるのですが、日本には岩塩を採取することは出来ません。甲斐の領民が塩不足に悩まされていることを知った上杉謙信は、「甲斐に売るのは駄目なのだろう」と信玄統治下の信濃に塩を売り始めます。この時、謙信は信玄に「もしも越後商人が塩の価格を不当に釣り上げていたら対処するから連絡するように」という内容の書簡を送っています。今川・北条の塩攻めも策略の一環と考えることが出来ますが、「毘沙門天の生まれ変わり」を自認する謙信にとって、戦には関係ない甲斐の領民を苦しめるのはお門違いだと考えていたのではないでしょうか。だからこそ、今川・北条の思惑の抜け穴である「信濃に塩を売る」ことで敵である武田信玄に塩を送ったのでしょう。

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