学生時代、歴史を習ったときの記憶で、日本の歴史というと真っ先に縄文時代が出てくるのではないでしょうか。旧石器時代から縄文時代へと移行し、温暖化によって海面が上昇し、日本列島にも数多くの入り江ができました。旧石器時代には、そのほとんどが狩猟によって生活していたものが、縄文時代になると魚や貝なども採って食料にするようになり、貝塚も多く発見されています。旧石器時代と縄文時代の違いは、土器、竪穴式住居の普及、貝塚などが挙げられます。
縄文時代は、今から16,500~3,000年前の時代を言います。旧石器人が基調になっていながら、旧石器時代末期に細石器文化を持った原モンゴロイドが北方から日本列島に渡来し、オーストロネシア語族が南海から、照葉樹林文化をたずさえて中国長江下流域から渡来した集団など、数多くの移住が重なって形成されていたのが、縄文人と言われています。住居は竪穴式住居に住み、弓矢を用いて狩猟するようになります。漁をするようになって貝塚ができ、植物を採って調理して食べるようになり、後には自分らで栗やどんぐり、ひょうたんまめなどを栽培するようになります。住居跡から、集団を構成していたことも判明し、死者を埋葬した跡が発見されたことから、ある種の宗教観を持っていたとも考えられます。
それまでは石器を使って猟をしていたのが、弓矢を使うようになり、食料の保存や煮炊きには縄文式土器を用いるようになります。用途に合わせて石を削って作った打製石器や、それを磨いて作った磨製石器、骨や動物の角で作った骨角石器などを使うようになります。また、漁をするときは、大きな木をくり抜いて作った丸木舟を使っていました。人々の交流も盛んになり、協力しあってストーンサークルを作ったり、巨木こうじなどの事業的なこともしていました。
縄文時代には、温暖な気候が続き、氷が溶けて、海面は現在よりも2~3m高い状態で、完全に大陸からはなれて日本列島となり、島国が形成されました。落葉広葉樹林と照葉樹林で覆われ、温暖化の変化に適応していけなかったマンモスやトナカイ、ナウマンゾウ、オオツノ鹿などの大型哺乳類が日本列島から絶滅してしまいます。縄文時代晩期には気温が2度ほど下がり、海面も低くなります。それに伴い、海での漁活動に、壊滅的打撃を受けます。
縄文時代の土器には、縄を土器の表面で回転させて模様をつけたりし、様々な模様の土器が作られました。縄文時代早期には、煮炊き用の土器が出現し、尖底土器が多く作られました。縄文時代前期を境に、土器の数は急増し、底の形が平たいものが一般化していきます。中期になると、立体的で、大型の土器が流行します。中期を代表する土器に火焔土器がありますが、これは燃え上がる炎をモチーフにしている形状で、国宝に指定されているものもあります。その中心的存在とされる火焔土器は、1999年に国宝に指定されていて、製作時期が4,500年ほど前で、『縄文雪炎(じょうもんゆほむら)』と愛称がつけられています。
縄文時代の晩期からは、稲作も始められています。熱帯ジャポニカの焼畑稲作が行われていたことが分かってします。ジャポニカは熱帯と温帯に分けられ、温帯ジャポニカは日本列島の他に、中国の長江北側などの限られた地域で行われていました。熱帯ジャポニカはインディカと重なりながら、広い範囲で作られています。縄文時代の稲は、炭化米として発見されていますので、日本列島でこの時代に稲作が行われていたのは間違いありません。また、単独で栽培されていたわけではなく、大麦やヒエ、粟、あずき、大豆なども昆作されていました。