平安京は長岡京から遷都以来、長い間京都を首都としていたものです。現在の京都府京都市の中心部にあたります。平城京の形態をそのまま受け継いでいましたが、城壁はありませんでした。東西4.5km、南北5.2kmに区画された、長方形の都城でした。日本の歴史の中で、年号を覚えるのに『鳴くよ(794)ウグイス平安京』と言う語呂合わせは有名です。
桓武天皇は山背国に遷都し、長岡京を造営していました。長岡京は10年ほどしか続かず、すぐに平安京に遷都することになります。784年に長岡京の造営が始まりますが、工事途中で遷都が行われました。785年、工事中に、長岡京遷都の責任者的な役割をし、工事をしきっていた藤原種継が工事中に命を奪われるという事件が起きました。信頼する配下を失った天皇は、首謀者や共犯者を徹底的に調べて罰を与えますが、指揮をとる種継がいなくなったことで、長岡京の工事は遅滞してしまいます。さらに、天皇の身内が次々とこの世を去るなどし、都の周囲では流行病が蔓延します。種継事件の際、関係者を厳しく罰していましたが、その中に自分の息子である皇太子、早良親王もおり、寺に幽閉したあと、淡路に流罪とし。配流される途中に命を落としています。その早良が音量となり、長岡京を呪っていると天皇は考えました。早良親王の菩提を弔うために、淡路に陵墓を整えましたがそれでも不安はぬぐいきれず、呪われた長岡京を棄てる決心を固めます。
すぐに新しい都を山背国葛野に定め、793年に工事を開始し、まだ完成していない平城京に翌年遷都します。この年から鎌倉幕府が成立するまでを平安時代と言います。途中、福原京遷都、南北朝による混乱などもありましたが、東京遷都となるまでの1,000年以上の長きにわたり、日本の首都として平安京はあり続けたのです。
平安京は、大内裏の造営から始められました。続いて市外の造営をしたと考えられています。右京の地は湿地帯にあるために、9世紀に入っても宅地化が進まずに、10世紀にはほとんどが荒れ果てて、本来京内で禁止されていた、農地に転用されることもありました。大内裏の近い場所を除き、左京に貴族の住む宅地が設けられ、上流貴族である藤原氏のような者の宅地は左京北部に密集しました。貧しい人々は、平安京の北限を超えた鴨川の川べりに住むようになり、鴨川の東岸には寺院や別荘が造られたために、東に市街地が広げられる傾向になりました。980年、朱雀大路の南側にある羅生門が倒壊しましたが再建されず、益々東に偏った街が形作られることになります。
平安京内は、東西南北に走る大路と小路によって約120m四方の『町』に分けられていました。『条』は東西の方向に並ぶ街を4列集めたもので、『坊』は南北の方向にある列を4つ集めたものを言います。16からなる同じ条、町にはそれぞれ番号があり、『左京五条二坊十二町』などと呼ばれました。現存すル京都市内の道路よりも、同時の道路の幅は広く、大路で幅約24m、小路でも約12mありました。朱雀大路は約84mもあり、朱雀大路の東が左京、西が右京になります。堀川小路と西堀川小路には川も流れていました。大路、小路にはそれぞれ名前がついていました。
現在、平安京は『へいあんきょう』と読んでいますが、造られた当初は『たいらのみやこ』と訓読みされていました。それまで、京の名前は地名を使うのが普通だったため、本来だと山背国の葛野に作られたことから、『葛野京』とするのが通例でしたが、長岡京での騒動によって遷都したことから、新しい京では、悪いことが起きずに、平安(訓読みでたいら)であって欲しいとの願いが込められ、『平安京』となったのです。