Ⅰ. | ヴェルサイユ宮殿 |
Ⅱ. | マリー・アントワネットに 対する中傷 |
Ⅲ. | 首飾り事件 |
IV. | フランス革命 |
V. | 囚われの身 |
VI. | タンプル塔 |
VII. | コンシェルジュリー |
VIII. | 王妃の裁判 |
IX. | マリー・アントワネット 最期の日 |
母. | マリア・テレジア |
夫. | ルイ16世 |
息子. | ルイ17世 |
長女. | マリー・テレーズ |
義妹. | エリザベート |
マリア・アントニアは1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンと、ハプスブルク家=ロートリンゲン家の出身、オーストリア大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生しました。マリア・テレジアは女帝と呼ばれた女性でしたが、私生活では良き妻であり、良き母親でした。
催しものが好きで、よく宮廷の行事に子供達を参加させ、マリア・アントニアは4歳で社交界デビューしています。とても家庭的な環境ですくすくと育ちますが、10歳のとき、父である神聖ローマ帝国皇帝フランツ1世がなくなり、マリア・アントニアの人生は大きく動き始めるのです。
神聖ローマ帝国皇帝フランツ1世がなくなり、マリア・テレジアはこれまで以上の重責を担うことになり、夫の死を悲しみながらも、女性としての地位を忘れてはいませんでした。神聖ローマ帝国皇帝の座に、長男ヨーゼフ2世をつけ、共同で帝国を統治していきます。次男レオポルトにはイタリアのトスカナ大公国を与え、他の息子達にもしかるべき地位を与えました。
一方、娘達は、同盟を諸外国と結んだり、友好関係を強いものにするために、政略結婚の道具として使われました。自らのオーストリア・ハプスブルク家と長年ヨーロッパの覇権を巡って、フランス・ブルボン家とは激しい対立をしてきました。
このフランスと、マリア・テレジアは1756年に、フランス王ルイ15世と同盟を結ぶことに成功しています。さらに、王位継承者と自分の娘を政略結婚させることで、この同盟を強固なものにしようと考えたのです。
王位継承者で時期フランス王になるルイ15世の孫で王太子のルイ・オーギュストの政略結婚の相手に選ばれたのが、マリア・アントニアでした。年齢的につりあっているという理由だけで選ばれたのです。
ルイ15世から、花嫁の教育係りとして、フランスからオーストリアにヴェルモン神父を派遣し、1769年6月13日に正式な結婚の申し込みがされました。結婚式は1770年5月16日に決められ、お互いの顔も知らぬまま、ルイ・オーギュスト15歳9ヶ月、マリア・アントニア14歳6ヶ月で結婚することになったのです。
母であるマリア・テレジアは、ウィーンを出発するまでのマリア・アントニアを毎晩寝室に呼び寄せ、それまでの空白を埋めるかのように一緒に過ごしました。
ルイ・オーギュストとマリア・アントニアはヴェルサイユ宮殿の中にある礼拝堂で結婚式を挙げ、マリー・アントワネットとしてこの宮殿で暮らしていくことになります。マリー・アントワネットは結婚式の間中、晴れやかな表情をし、床入りの儀式のときにも微笑みを浮かべていたといいます。しかし、王太子はアントワネットの手すら握らなかったのです。
王位継承者の妃として、子供を産む可能性すらないということは、彼女にかなりの屈辱を与え、この不完全な結婚は7年も続くことになるのです。お互い話し合って理解しあわなくてはいけないと夫に告げたアントワネット。夫婦らしい生活を送るとルイ・オーギュストに約束させるのです。
王太子夫婦が、本当の夫婦として成立していないということは、ヴェルサイユ宮殿を訪れる人々の間では知れ渡っていました。更に、少女気分の抜けない王太子妃は、年配の公爵夫人達には敬意を払うことなく、軽薄な若者ばかりを周囲にはびこらせるようになり、身分の高い女性達からは反感を買い始めます。
陰で『オーストリア女』とも呼ばれていました。ルイ15世の愛妾、デュ・バリー夫人とマリー・アントワネットの派閥に宮中が分かれたときも、デュ・バリー夫人派の人々は、同時に反オーストリア派でもあったのです。
はじめてパリを公式訪問したマリー・アントワネットは、その歓迎振りに驚き、いっぺんにパリが好きになりました。平和が訪れてから10年が経過し、フランスとオーストリアの平和の象徴と、民衆は捉えたのです。誰も『オーストリア女』と呼ぶパリ市民はいませんでした。このとき、パリの人々に、マリー・アントワネットは確かに愛されていました。
1774年5月10日、フランス王ルイ15世がこの世を去り、ルイ・オーギュストがフランス王ルイ16世となり、マリー・アントワネットも18歳で王妃となります。若すぎるゆえ、マリー・アントワネットに王妃の自覚はなく、本来、幸福のシンボルとなり、国民の母のような存在でいなければならないにもかかわらず、幼い王妃は自分の責任と立場が理解できなかったため、次第に人々からも反感を買うようになっていきます。
宮廷の娯楽に関する一切を任されていたために、毎週3回の芝居、2回の舞踏会を催していて、年老いた者や自分が退屈だと思った人物は、宮廷から追い出してしまうなど、好き放題の振る舞いを見せていました。
マリー・アントワネットの母、マリア・テレジアは、夫であるルイ16世を思いのままに操れることをアントワネットに望んでいました。その思惑に反し、アントワネットは自分の楽しみにのめり込むばかりで、影響力を持とうとは微塵も考えていませんでした。
若い国王夫婦には共通点が一つもなく、優雅な体位振る舞いの王妃に比べ、趣味の錠前作りのために、いつも薄汚れた手をしていた国王を、王妃はバカにしている面もあり、尊敬などしていませんでした。
ルイ16世の身体的欠陥によって、本当の夫婦となれなかったアントワネットは、ベッドを共にすることを嫌い、国王が眠ってから夜の街に遊びに出かけ、明け方宮殿に戻るという有様でした。
結婚した後、子供のできないアントワネットの身を案じ、母マリア・テレジアは息子である神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世をフランスに送ります。子供のできない理由をルイ16世から聞いたヨーゼフ2世はルイ16世を励まし、遂には手術を受けることになります。
結婚から7年が経過してから、ようやく2人は本当の夫婦となることができ、翌年には始めての子供を産み、幼くして2人がこの世を去りますが、4人の子供を産むことができたのです。子供を産んでからのアントワネットは、夜遊びもしなくなり、大変子煩悩になったと言われています。