Ⅰ. | ヴェルサイユ宮殿 |
Ⅱ. | マリー・アントワネットに 対する中傷 |
Ⅲ. | 首飾り事件 |
IV. | フランス革命 |
V. | 囚われの身 |
VI. | タンプル塔 |
VII. | コンシェルジュリー |
VIII. | 王妃の裁判 |
IX. | マリー・アントワネット 最期の日 |
母. | マリア・テレジア |
夫. | ルイ16世 |
息子. | ルイ17世 |
長女. | マリー・テレーズ |
義妹. | エリザベート |
マリー・アントワネットを裁判にかける動きは当初ありませんでした。外国との交渉時の大事な人質だったからです。ルイ16世の裁判は、国家の裁判所を自任していた国民公会で、正当な裁判を受けることができました。一方、マリー・アントワネットの裁判は、不公平で形だけのものでした。裁判をする前から、マリー・アントワネットの運命は決められていたのです。
マリー・アントワネットを裁判にかけることを強く望んだのが、パリ市の幹部エベールと、革命裁判所検事総長のフーキエ・タンヴィルでした。革命政府の中には、外国との交渉の道具にマリー・アントワネットを使おうと言う意見も相変わらず根強かったのですが、肝心の相手国が交渉に乗ってくる気配もなく、仮に逃亡されたら反革命派の勢いがついてしまうと考えました。
民衆もアントワネットの裁判を強く望んだために、国民公会は裁判にかけることを決定しました。そのためには有罪判決がでるようにしなければいけません。フーキエ・タンヴィルが革命裁判所の組織強化に取り掛かりました。判事と陪審員を筋金入りの革命派で固める策に出たのです。
第1回目の尋問がコンシェルジュリーで行われました。1793年9月3日16時頃から翌朝7時半まで、休憩を含めて15時間も行われました。罪を問われるのは『敵国との共謀』と『国家の安全に対する陰謀』でしたが、マリー・アントワネットがフランスを裏切っているという、有罪になるだけの証拠は揃えられませんでした。
尋問は、タンプル塔にいる義妹エリザベートと娘マリー・テレーズ、息子ルイ・シャルルにも行われました。エリザベートとマリー・テレーズは、何を聞かれても否定を通しました。しかし、息子ルイ・シャルルは尋問の中で、マリー・アントワネットが何かしらの方法を使い、外部の協力者と情報を交換していたこと、塔に派遣されたパリ市の役員に、共犯者がいるのではないかという嫌疑を全部認めてしまうのです。
母が監視の役人達と1時間半ほど何か相談をしていたとか、毎晩22時半になると、窓の外から行商人が情報を叫んでいたなどと証言しました。しかし、エリザベートとテレーズの証言の一問一答が記録されているにもかかわらず、シャルルの証言は、あとからまとめて書かれたものでした。
8歳の子供が証言するには詳細すぎて具体的すぎ、信憑性に欠けていますが、どんな手を使ってでもマリー・アントワネットを有罪にしなければいけなかったのです。何故なら、裁判は見せ掛けだけのものであり、判決はとっくの前に決まっていたのですから。
10月12日18時。革命裁判所の法廷で、非公開の予審尋問が開かれました。とは言うものの、内容は尋問というよりも告発に近いものでした。裁判長がマリー・アントワネットに問いただしたのは以下の7つの項目でした。
これらに対し、マリー・アントワネットは有罪となるような言動をしないよう、巧みな供述を繰り返しました。頭の回転がよく、臨機応変に対応できる、頭の良い女性だということが見てとれます。10月14日、いよいよ公判が始まりますが、内容は非公開で行われた予審尋問と変らないものでした。
この公判自体おかしなもので、アントワネットに関する事件を並べただけで、それに対して彼女が革命をどう受け止め、対処したのか、どのような反革命行動をしたのかが明らかになっていません。マリー・アントワネットは、公判でも巧みに陳述し、判事らに付け入る隙を与えませんでした。
陪審員が1時間の退席をして審議をしている間、アントワネットは自分が国外追放になるものだと信じていました。しかし、裁判の前に判決は決まっており、審議するふりをして陪審員らは時間を稼いでいるだけでした。
審議が終わり、深い沈黙に閉ざされた法廷に、裁判長エルマンが『マリー・アントワネット。これから陪審員の答申を言い渡す。』と告げた後、検事フーキエ・ダンヴィルが『被告人は死刑に処せられる。』と叫びます。身じろぎせずに判決を聞いたアントワネットは、法廷を後にするとき、『もう何も見えなくて歩くこともできません』と、憲兵の手を借りたのです。こうして見せ掛けだけの裁判が幕を閉じました。