Ⅰ. | ヴェルサイユ宮殿 |
Ⅱ. | マリー・アントワネットに 対する中傷 |
Ⅲ. | 首飾り事件 |
IV. | フランス革命 |
V. | 囚われの身 |
VI. | タンプル塔 |
VII. | コンシェルジュリー |
VIII. | 王妃の裁判 |
IX. | マリー・アントワネット 最期の日 |
母. | マリア・テレジア |
夫. | ルイ16世 |
息子. | ルイ17世 |
長女. | マリー・テレーズ |
義妹. | エリザベート |
マリー・アントワネットには、数多くの逸話やエピソードがあったことでしょう。中でも有名なのはパンの話ですね。本当にマリー・アントワネットが言ったのかどうか、今では想像でしか考えることができません。
飢餓に陥って反乱を起こしている民衆に向かい、『パンがなければお菓子(ケーキ)を食べればいいのに』と、発言したと言われていますが、ことの真相は、反マリー・アントワネット派貴族による噂だったり、当時の文献の誤訳や誤解が元になっているようです。
ちなみに、ここで言われている『お菓子』とは、ブリオッシュのことです。ブリオッシュはフランスのお菓子で、パンよりも、バターと卵を多く使って作ります。現在ではパンとして扱われていますが、この時代のフランスでは、ブリオッシュをお菓子、ケーキ、クロワッサンのような扱いをしていました。クロワッサンやコーヒーを飲む習慣は、オーストリアからマリー・アントワネットが伝えたものと言われています。
昔のフランスには『入浴』という習慣がなく、体臭を消すために香水をつけていました。体臭と香水の臭いが交じり合って、ものすごい臭いがしていたと言われています。マリー・アントワネットが生まれ育ったオーストリアには入浴の習慣がありました。
母マリア・テレジアは、マリー・アントワネットが幼い頃からお風呂好きになるように教育しています。マリー・アントワネットはフランスに嫁いでからも、変らず入浴の習慣を続けました。タンプル塔に幽閉されたときにも、バスタブが運び込まれたと言われています。
体臭を消す必要がなかったマリー・アントワネットは、それまでフランスの貴族が使っていたムスクなどの動物系香料のような濃厚な香りを嫌い、爽やかなハーブや、軽やかな花の香りなど、植物系の香りを好み、これもまた貴族の間で流行しました。
マリー・アントワネットは、自由に育ってきたオーストリアとは違い、ヴェルサイユ宮殿でのしきたりなどに縛られる生活が息苦しく感じていました。そこで、宮殿内で自由に過ごすことのできる空間を作ろうと考えました。
そして思い通りの空間を次々と作っていきます。公的な住居は大掛かりな改装もできませんが、プライベートな住居ではどんどん手を加え、隠れ家的な部屋を増やしていきました。部屋と部屋を行き来できる廊下や階段なども考えられました。
結婚式などでスパークリングワインを注ぐのに使われるクープグラスですが、グラスの口が広くマリー・アントワネットの左の胸をかたどったものだと言われています。スパークリングワインを注ぐのであれば、このグラスではなく。フルートグラスの方がオススメです。
それまで様々な形をしていたハンカチを正方形と決めたのはマリー・アントワネットです。ですから、マリー・アントワネットの誕生日、11月3日はハンカチーフの日とされています。
マリー・アントワネットの埋葬場所は、最初、革命広場から700m北に位置するマドレーヌ墓地に埋葬されていました。王政復古後、ルイ18世によって、マドレーヌ墓地からルイ16世とマリー・アントワネットの遺骸を調査しました。ルイ16世の20回目の命日に、マドレーヌ墓地からサン=ドゥニ聖堂の王墓に改葬されました。
サン=ドゥニ聖堂は、何世紀にも渡って、フランスの王と王族が埋葬されてきた場所です。ルイ16世とマリー・アントワネットの棺は、ルイ18世に伴われてサン=ドゥニ聖堂まで運ばれ、祈りと追悼の辞の後、地下にある廟堂に棺がおろされると、礼砲と鐘が鳴らされました。
ルイ17世はタンプルの墓地で、無縁仏として葬られていました。ルイ17世の場合、身代わりなどの説も出ていたため、心臓が取り出され、DNA鑑定の結果、マリー・アントワネットと2人の姉との毛髪、子孫との遺伝子が一致したため、やはり無縁仏として葬られていたのはルイ17世ということが2000年4月に確定されました。
サン=ドゥニ聖堂に運ばれ、父や母と一緒に眠ることになりました。2004年には、ミイラ化した心臓が、聖堂地下室の壁に封印されました。ルイ16世もマリー・アントワネットも、もちろんルイ17世はじめ、このサン=ドゥニ聖堂で眠る多くの王家の人間は、ようやく静かな眠りについていることでしょう。