Ⅰ. | ヴェルサイユ宮殿 |
Ⅱ. | マリー・アントワネットに 対する中傷 |
Ⅲ. | 首飾り事件 |
IV. | フランス革命 |
V. | 囚われの身 |
VI. | タンプル塔 |
VII. | コンシェルジュリー |
VIII. | 王妃の裁判 |
IX. | マリー・アントワネット 最期の日 |
母. | マリア・テレジア |
夫. | ルイ16世 |
息子. | ルイ17世 |
長女. | マリー・テレーズ |
義妹. | エリザベート |
フランス革命が勃発してから、マリー・アントワネットから多大な恩恵を受けていたポリニャック伯爵夫人ら貴族たちは、王妃を見捨てて亡命してしまいます。最期までマリー・アントワネットに誠実に接していたのは、王の妹である、エリザベートとランバル公妃だけでした。
身柄をヴェルサイユ宮殿から、パリのテュイルリー宮殿に身柄を移された国王一家は、囚われの身でありながら、ルイ14世の時代に、ヴェルサイユ宮殿に王宮が移る前の宮殿に戻ることとなったのです。
民衆の望みは、国王一家がパリで一緒に暮らし、自分達と共存していくことでした。ですから、パリに身柄を移された国王一家を歓迎している面もあったのです。ルイ14世以来、この城を使用するのは150年ぶりになり、その間放置されていたために、あちこち大幅に手を入れる必要がありました。
ヴェルサイユ宮殿からは家具が運ばれ、家族水いらずの生活を送ることになります。しかし、ルイ16世もマリー・アントワネットも、舞踏会や観劇、音楽会を自粛して、自らが捕虜のように振る舞い、滅多に外出することはありませんでした。このような国王夫婦の態度は、民衆から畏怖の念を取り払い、自らの力を信じ込ませるものとなりました。
憲法制定の準備を議会が進める中、決定的な影響力を持っていたのが、立憲王政を支持していたミラボー伯爵でした。ミラボーはルイ16世に革命を受け入れさせた上で、手を結ぼうと考えていました。そして、国王を動かす力がある王妃、マリー・アントワネットに謁見しようとしますが、貴族でありながら、平民の味方をするミラボーをアントワネットは嫌い、会おうとはしませんでした。
マリー・アントワネットは、兄であるヨーゼフ2世やスペイン国王に、ルイ16世の権威を回復する力を貸して欲しいと頼みますが、スペインからは返事はもらえず、兄からは、今は忍耐のときだと諭されます。孤立した国王と王妃は、ミラボーと手を結ぶことにし、ミラボーは忠誠を誓い、これから制定される憲法を国王にとって有利なものとすることを約束、実現しました。
更に、国王夫妻に迫る危険や、とるべき行動の助言を行いました。しかし、国王夫妻が信用したのはミラボーではなく、かつての宮内大臣のブルトゥイユやフェルセンでした。このとき、国王夫妻がミラボーの助言を聞き入れていれば、運命はまた違った方向に行ったかもしれません。しかし、フェルセンの助言を聞き入れた夫妻は、パリからの脱出を計画します。
フェルセン伯爵はマリー・アントワネットと愛し合っていました。そして私財を投じて、国王一家の逃亡に力を貸すことになります。ミラボーもパリから脱出することに反対ではありませんでした。フェルセンと違うところは、フランス軍を頼りに、昼間堂々と行うべきだとしたものでした。外国の軍隊を頼りに逃亡してはいけないと考えていたのです。
革命が進む中、マリー・アントワネットはこのままパリにいるべきではないと考えたのです。1791年6月20日、遂にパリからの脱出が決行されます。庶民に化けた(つもりの)国王一家は疑惑をそらすために、国王と王妃は別の馬車に乗ることを勧めたのですが、王妃はそれを譲らず、家族全員が乗ることのできる大きな馬車に、銀の食器や衣裳箪笥、食料品や酒蔵一つ分のワイン樽を積んで出発しました。
庶民に変装していた(つもり)とはいえ、国境近くのヴァレンヌで馬車を止められ、身元がばれてしまいます。ルイ16世は、自分を隠そうともしなかったため、早い段階で身元が分かってしまいました。このお粗末な逃亡の失敗によって、6月25日に国王一家はパリに引き戻されました。このヴァレンヌ事件をきっかけに、国王一家は親国王派の国民からも見離されてしまいます。
ヴァレンヌ事件をきっかけに、国民の気持ちは完全に国王一家から離れてしまいます。『国王がいなくても、自分達は生きていける』と民衆は考え、王政は必要のないものだと思い始めます。国外に亡命した者たちは、革命勢力を非難していました。
やがてフランスはオーストリアに宣戦布告し、それを知ったアントワネットは、フランスの戦術をオーストリアに通報し続けます。これは裏切りのつもりではなく、フランスが負けることより、連合軍によって開放されることを望んでいたからです。議会が『祖国の危機』を宣言し、連合軍の総司令官ブラウンシュヴァイク公爵が出した、『国王に従うこと』『テュイルリー宮殿を祝襲撃したら、パリを全滅させる』とした宣言に、民衆の怒りは頂点に達し、爆発しました。
1972年8月10日、テュイルリー宮殿は民衆に襲撃され、議会に逃げ込んだ国王一家は、議長席の後ろの小部屋にかくまわれました。宮殿ではスイス近衛兵が民衆と戦っていましたが、国王が発砲中止命令を出したため、スイス近衛兵らは暴徒達の餌食となってしまうのです。
こうして、ルイ16世とマリー・アントワネットの目の前で、フランス王政は音をたてて崩壊したのです。泣き続けるマリー・アントワネットとは対照的に、ルイ16世は動じることはありませんでした。議会は王権を停止し、新しい憲法を制定するべく、議会を召集する決議を行い、8月13日には、ルイ16世とその家族をタンプル塔に投獄することを決定します。