Ⅰ. | ヴェルサイユ宮殿 |
Ⅱ. | マリー・アントワネットに 対する中傷 |
Ⅲ. | 首飾り事件 |
IV. | フランス革命 |
V. | 囚われの身 |
VI. | タンプル塔 |
VII. | コンシェルジュリー |
VIII. | 王妃の裁判 |
IX. | マリー・アントワネット 最期の日 |
母. | マリア・テレジア |
夫. | ルイ16世 |
息子. | ルイ17世 |
長女. | マリー・テレーズ |
義妹. | エリザベート |
13世紀のフランスで、国王をしのぐ金持ちと言われていたテンプル騎士団の本拠地であった場所です。1312年にテンプル騎士団が廃止され、聖ヨハネ慈善修道会に分与され、フランス革命後に修道会は廃止されます。
1791年、ヴァレンヌ事件のあと、ルイ16世、マリー・アントワネット、マリー・テレーズ王女、ルイ・シャルル王子、王妹エリザベート王女が幽閉され、外から中が見えないように、全ての窓が厚い布で覆われました。現在は、ナポレオンが取り壊しを命令したために、跡形もなくなっています。
ヴァレンヌ事件によってタンプル塔に幽閉されることになったルイ16世一家。パリに連れ戻される前にシャロンに到着。このシャロン近くの領主ダンピエル伯がルイ16世らの乗った馬車に近づき、表敬の挨拶をしたところ、怒った民衆に惨殺されてしまいます。どれだけ一触即発の空気が流れていたのかが分かります。
パリに戻るまでの道すがら、途中から議会から派遣されてきた国王一家を連行する委員3名が一緒に馬車に乗ります。この馬車の中で、委員であった3名は、マリー・アントワネットが想像していたようなとんでもない女性ではなかったこと、王が自ら王子の放尿を手伝っていたこと、『オーストリア女』と叩かれていた女性が、人の話しに真摯に耳を傾ける魅力的な女性であることなどを知り、革命派達も、王族も個人で見ると自分達となんら変わらないことを知り、すっかり王党派寄りの考えを持ってしまい、後の議会では王の免責を主張するまでになります。
タンプル塔の3階と4階が一家の住居としてあてがわれました。それぞれ4つの部屋に仕切られ、質素な家具が置かれていました。監視もかなり厳重だったにも関わらず、ルイ16世もアントワネットも、外界の出来事を詳しく知ることができました。召使に見聞きしたこと全てを教えてもらい、王党派に雇われた新聞の売り子は塀の向こうでニュースを叫んでいました。
規則正しい生活を送り、ルイ16世は朝6時に起床し、着替えをすると9時まで読書をしました。アントワネットは夫よりも遅く起き、息子の着替えを手伝い、国王夫婦と子供達、エリザベート内親王と朝食を一緒に摂りました。食事のあとは、国王が王子に本を読ませたり、文章を書かせたり、ラテン語や歴史、地理などを教えていました。
その間、マリー・アントワネットとエリザベート内親王は、王女に絵を描いたり音楽を教えたり、時には庭園を散歩したりしました。昼食は王妃の部屋でとり、午後からは昼寝をしたり、編み物や刺繍、テーブルゲームなどをしていました。8時には王子が休み、その後夕食をとって、国王は自室で読書を、王妃は王女や内親王と一緒に過ごしていました。
その頃の民衆は、怒りが貴族にまで向けられ、外国勢力と裏で結託していると思うようになります。民衆は理性を失っていました。王党派とみられる貴族や、新憲法に宣誓をしなかった司祭らに怒りの矛先が向けられ、彼らが幽閉されていた監獄を襲い、収監者を手当たり次第に引きずり出して見るも無残な行動に出るのです。パリのあちこちでは犠牲者の叫び声があがり、水路という水路は泥に混じって血が流れました。
マリー・アントワネットのよき理解者であったランバル公爵夫人も、このときに犠牲になっています。長いブロンドの髪の毛は血に染まり、その髪を風にたなびかせた公爵夫人の首は、槍の先に刺されてマリー・アントワネットの住むタンプル塔の窓に掲げられたのです。
ヴァレンヌ事件が起こるまでは、スキャンダルにまみれたマリー・アントワネットとは違い、ルイ16世は国民の境遇に心を悩ませる、心優しい国王として、絶大な人気を得ていました。国民のよき支配者であり、王妃であるマリー・アントワネットの噂はどうであれ、国王としての威信が地に落ちると言うことはなかったのです。全てはヴァレンヌ事件によって、自体の進むべき方向が変りました。タンプル塔に幽閉されていた国王一家でしたが、遂に処遇を巡って裁判に欠けられることになります。
タンプル塔に幽閉された国王一家は、もはや悪質な政治犯として見られ、釈放の余地はありませんでした。裁判のための調査委員会により、テュイルリー宮殿のルイ16世の住居から、『鉄の戸棚』が発見されました。メモ魔だったルイ16世は、様々な書類をこの中に残していたのです。
革命当初から、国王が表と裏の顔を持っていたこと、亡命者と連絡を取っていたこと、外国と交渉していたことなどを証明する文書が出てきたのです。これで政治犯として、ルイ16世の有罪は決まったようなものでした。
12月11日、パリ市長が裁判所に行くため、ルイ16世を迎えにきました。これから判決が出るまで、家族と会うことも許されませんでした。もちろん、下された判決は『死刑』でした。死刑に賛成が387票、反対が334票でしたが、賛成のうち、執行猶予を望む票が26票あり、この表を反対票に加えると361対360となり、わずか1票の差で死刑が確定されたことになります。
ルイ16世に判決がくだされて、ようやく家族が顔を合わせることができました。しかし、それはお別れでもあったのです。家族は2時間の間、泣きながら、嘆き悲しんでいたと言われています。判決が出た翌日、タンプル塔から馬車に乗せられて、刑が執行される革命広場まで連行されます。
ルイ16世は、これまで王妃の愛がフェルセン伯爵に向いているのを知っていましたが、人生の最後の最後でやっと妻に愛されていると実感することができ、司祭に対し、自分の髪の毛と結婚指輪を王妃に渡すように頼み、『別れるのが辛いと伝えて欲しい』と言い残して断頭台に上りました。
10時22分。マリー・アントワネットは連打される太鼓と大砲の音で、夫の刑が執行されたことを知ります。悲しみと絶望にさいなまれながらも、次の瞬間、息子ルイ・シャルルの前に膝まづき、ルイ17世としての即位を讃えたのです。最期まで、マリー・アントワネットは王妃であり、母であり、こうした窮地に立たされて、はじめて自分がどういう立場の人間だったのかを自覚し、それにふさわしい態度で臨んだのです。