マリー・アントワネット
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ランバル夫人・ポリニャック夫人

ランバル公妃マリー・テレーズ・ルイーズ・ド・サヴォワ=カリニャン。1749年9月8日生まれで、マリー・アントワネットの女官長を務めた人物です。ポリニャック伯爵夫人。本名ヨランド・マルティーヌ・ガブリエル・ドゥ・ポラストン。どちらの人物も、ヴェルサイユ宮殿では、マリー・アントワネットの身近におり、また、信頼も得ていたのですが、フランス革命では対照的な行動をとります。

宮中女官長・ランバル夫人

ランバル夫人ランバル夫人は、17歳でランバル公ルイ・アレクサンドルと結婚しますが、翌年に死別し、若くして未亡人となりました。

14歳でヴェルサイユ宮殿にきたマリー・アントワネットは、自分に感心のない夫と慣れない宮殿の生活で窮屈な思いをしているとき、ランバル夫人と出会います。この年から宮廷に使えることになっていたのです。

未亡人とはいえまだ若くて美しく、アントワネットと6歳しか年齢も離れていません。そんなランバル夫人をとても気に入り、宮殿の生活をしきる宮中女官長に任命しました。女官長といえば、王妃付女官長、衣裳担当女官長などがいましたが、それらを上回る権限を持つ地位でした。

ランバル夫人の浪費

マリー・アントワネットの信頼を得ていたランバル夫人は、役15年もの間、現在の価値で約10億円という、15万リーブルもの下賜金が与えられていました。マリー・アントワネット御用達の店で、金に糸目をつけずにドレスを買いあさっていたと言われています。こうした浪費もしましたが、ベッドにアントワネットの食事を運ぶ役目を与えられたりして、献身的に尽くしていました。

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巧みに取り入ったポリニャック夫人

ポリニャック夫人下心なしにマリー・アントワネットに仕え、可愛がられたランバル夫人に対し、ポリニャック夫人は、大変な貧乏貴族で、夫ともどもマリー・アントワネットに取り入り、徐々にアントワネットはランバル夫人ではなく、ポリニャック夫人に目をかけるようになります。

しかし、ポリニャック夫人は、経済的なことを理由に宮廷を去ろうとします。(恐らく作戦でしょう)アントワネットはポリニャック夫人を寵愛するあまり、宮廷に留まるように涙を流して説得し、下賜金をランバル夫人の3倍以上の50万リーブルも与え、宮殿内に住まわせるようになり、ランバル夫人にさえ与えられなかった、『プチ・トリアノン』に招き入れるようになっていました。

マリー・アントワネットの浪費は、このポリニャック夫人の登場によって、更に増えていったのです。所有する馬も、王妃専属の馬の担当者がポリニャック夫人の夫だということで、全王妃の倍の馬を所有していました。マリー・アントワネットは、ポリニャック家を丸抱えしていたのです。

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運命を共にしたランバル夫人

ランバル夫人は純粋で慎ましやかな女性でした。マリー・アントワネットが自分を寵愛してくれても、その好意につけ入ったりすることは決してありませんでした。フランス革命 が起こると、国王一家の援助を求め、ランバル夫人はイギリスに渡ります。

帰国後、国王一家が幽閉されている、テュイルリー宮殿にかけつけ、自らの部屋を国王一家と王党派との連絡場所としても提供しました。国王一家がタンプル塔に移されたとき、侍女らと共に、ランバル夫人の姿もありました。逃げようと思えば逃げられたのに、運命を共にしようと誓ったのです。

タンプル塔に投獄されてから9日後に、ラフォルス勘合に移され、革命の正当性を認めるように強要されましたが拒み続けました。ランバル夫人は、マリー・アントワネットの友人であり、王党派であるということを憎悪した民衆達により、1792年9月3日、衣裳も体も切り刻まれるという、見るも無残な凄惨を極めた方法で、命を奪われてしまいます。

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オーストリアへ亡命

ポリニャック夫人は、フランス革命が起きると、あれだけマリー・アントワネットに寵愛を受けていながら、国王夫婦を見捨てて、我先にとオーストリアに亡命します。そして、マリー・アントワネットが処刑された年に、病気で命を落とすことになります。ポリニャック夫人の息子は、王政復古後にフランスに戻り、シャルル10世の時代には首相にまでなりましたが、その政策から国民の怨みをかい、フランス7月革命のきっかけになったとも言われています。

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