Ⅰ. | ヴェルサイユ宮殿 |
Ⅱ. | マリー・アントワネットに 対する中傷 |
Ⅲ. | 首飾り事件 |
IV. | フランス革命 |
V. | 囚われの身 |
VI. | タンプル塔 |
VII. | コンシェルジュリー |
VIII. | 王妃の裁判 |
IX. | マリー・アントワネット 最期の日 |
母. | マリア・テレジア |
夫. | ルイ16世 |
息子. | ルイ17世 |
長女. | マリー・テレーズ |
義妹. | エリザベート |
ルイ15世の時代には、気候もよく、農作物が豊富に獲れて、人々は豊かな生活を送っていました。ルイ16世の時代になると、天候は悪く、農作物も不作で、唯一豊作だったブドウのお陰でワインの価格は値崩れを起こし、人々の暮らしはとても苦しいものになっていました。にも関わらず、自由奔放に贅沢三昧のマリー・アントワネット。
ただでさえ反発されていたのに、首飾り事件が起き、ロアン枢機卿(すうききょう)への処分のあり方に、ルイ16世までもが民衆はもとより、貴族からも支持を失います。少しずつフランス王政が揺らぎ始め、終わりの足音が聞こえて来るのです。
1789年7月14日。王政に対する民衆の不満が爆発し、フランス革命が勃発します。革命の直接的な原因は財政破綻です。この破綻を民衆は、『赤字夫人』である、マリー・アントワネットの浪費であると信じて疑いませんでした。実際は赤字額に比べると、アントワネットが使った金額は国が引っくり返るほどのものではありませんでしたが、民衆は王妃のせいで国が傾いたと信じていたのです。それほどマリー・アントワネットの評判は悪くなっていました。
1789年5月。聖職者、貴族、平民の三身分の代表者からなる三部会議が174年ぶりにルイ16世によって国民の、財政改革の協力を求めるために開催されました。フランス革命の導火線になるということも知らずに。第三身分の議員達は、自分達が国民の代表と主張し、王政ではなく『国民議会』を宣言します。第二身分の貴族らがそれに賛同し、ルイ16世は聖職者と貴族に、やむなく第三身分に合流するように命じました。
国は王家の私的財産という感覚で育ってきたマリー・アントワネットにしてみれば、政治に国民が口出しし、王家の行動に制限をつけるなどもってのほかだと考えていました。王妃は2人の王弟と巻き返しにかかり、ルイ16世にヴェルサイユとパリ近辺に軍隊を集結させ、改革に理解を示していた財務総監ネッケルを罷免としたのです。
ネッケルが罷免になり、マリー・アントワネットは改革派の勢いがなくなったと考えたでしょうが、国民の受け取り方は違いました。ネッケルは国民に人気があり、その罷免に続いて、国王の軍隊がパリを制圧することを恐れました。
ネッケルの罷免に怒りをあらわにしたパリの人々は反乱を起こします。周囲を包囲されても、決して落ちることはないと言われていたバスティーユ要塞を襲撃します。ルイ16世は『暴動か?』と側近に尋ねると、『いいえ閣下。革命でございます。』と答えたと言われています。
バスティーユ牢獄の司令官、要塞の警備兵、パリ市長が襲われて命を落としており、民衆の怒りはどんどん激しさを増していきます。ルイ16世は親しい貴族たちをフランスから脱出させ、王室に忠誠心を示すフランドル連隊を呼び寄せます。これが更なる民衆からの反感を買うことになります。
革命運動の中心地、パレ・ロワイヤルの庭園で、ヴェルサイユ宮殿に押しかけようという女性たちの声が高まっていました。ついに10月4日、パンを求めて民衆がヴェルサイユ宮殿目指して行進を始めました。翌日、プチ・トリアノンを散策していたマリー・アントワネットの元に、パリから民衆が武器を持ってこちらに向っていることを知らされ、慌てて宮殿に戻ります。これを最期に、マリー・アントワネットがプチ・トリアノンに戻ることはありませんでした。
ヴェルサイユを離れようとする国王の馬車に群集が襲いかかり、馬具をはずして馬を連れ去ります。このとき初めて国王夫妻は、自分達が囚われの身になったことを実感させられるのです。国民衛兵司令官、ラ・ファイエット将軍が到着し、国王夫婦は安心して寝室に引き上げることができましたが、夜明け、暴徒が宮殿に侵入し、王妃の住居を目指して殺到しました。
叫び声を聞いて、隠し通路を通ってルイ16世の部屋に間一髪で逃げ込むことができました。近衛兵の首を槍の先に突き刺した民衆は、激しい非難の声を挙げながら、国王一家に対してパリに行くように叫びました。意を決してルイ16世がバルコニーに立つと、『王妃をバルコニーに出せ』という声があがります。
髪は乱れ、真っ青な顔をしていたマリー・アントワネットですが、子供2人を連れ、冷静で威厳を保ってバルコニーに姿を現し、胸の前で手を組み合わせながら、ゆっくりと頭を下げました。夫であるルイ16世と、かつてないほど心を一つにし、家族と自分自身の命を守るために不屈の精神で挑んだのです。母として、王妃おして凛とした態度のマリー・アントワネットの姿に人々は感動し、政治的な王妃への怒りはおさまったのです。こうして囚われた国王一家は、首都パリへと身柄を移されることになりました。