「かぼちゃ」の原産地
以前、「かぼちゃ」の原産地はインド、ナイル河沿岸、ペルー、アンゴラ、南アジアなどの様々な説がありましたが、ここ数年のあいだに中南米遺跡の研究が進められ、地層からカボチャの種が発見されたことで中南米原産だという説が有力視されるようになりました。そんなわけで、カボチャの原産地はメキシコとガテマラにあたる中南米地域とされています。さっき述べた地層のことからも古代アステカ、インカ、マヤの人々はカボチャの種を食べていたことが分かりますね。昔の品種は果肉部が苦くて薄く食べられる部分が少なかったので、種だけを食べていました。また、土器を作る技術がなかった時代には果実の大きな「ペポカボチャ」のなかで、外果皮が厚くて堅く強いものは種と果肉を取り除いて乾燥させ、家庭用の水や食料を貯蔵するための容器として使っていたと思われます。しばらくして、突然変異によって甘いカボチャできました。そして、それをアメリカの原住民が見つけて栽培種へと作り替えて、次第に発展していったのです。
日本での「かぼちゃ」の歴史
私たちが普段何気なく言っている「かぼちゃ」という名前の由来は、カンボジアからきています。日本へカボチャが伝えられたのは、1541年に大分に漂着したポルトガル船が「日本かぼちゃ」を運んできたのが始まりと考えられています。伝えられた当初はカンボジアがなまって「かんぼちゃ」や「かぼちゃ瓜」などと呼ばれ、最終的には「かぼちゃ」になりました。ちなみに、スペイン人やポルトガル人の宣教師たちが日本へ寄港したときには「かぼちゃ」のほかにも、サツマイモやトウモロコシ、ジャガイモなどの保存性が高い野菜類が持ち込まれました。その後、1573年頃に長崎県に伝わってから、日本の農家でも栽培されるようになりました。中国品種は1501~1600年のあいだ、アメリカ品種は1863年に伝えられたと言われています。こうして東北地方では1620年頃、京都周辺では1670年頃、東京周辺では1740年頃から普及しはじめました。
大友宗麟(おおともそうりん)って、どんな人?
1530年、豊後国の大名・大友義鑑の嫡子として誕生しました。「日本でのかぼちゃの歴史」でも書いているように難破したポルトガル船が大分県に着き、そこでカボチャが運ばれたのですが、このときカボチャを献上されたのが大友宗麟だったのです。その後、キリシタン宣教師フランシスコ・ザビエルに出会ったことで、キリスト教に興味を示すようになります。1578年に洗礼を受けた彼はドン・フランシスコという名前をもらいます。そんな彼は日向国・無鹿の地にキリスト教の理想郷建国を夢見ていましたが、そのことで薩摩国の島津氏と衝突してしまいます。この際に大友・島津と肥前国の龍造寺氏をリーダーとします。ですが1584年に龍造寺氏は島津氏に敗れ、翌年の1585年に宗麟は大坂に行き、豊臣秀吉に九州征伐を要請しました。1587年、島津氏が秀吉に降伏した知らせを聞いてからすぐに大友宗麟は病気のため、命を落としました。
「宗麟かぼちゃ」のこれから
ポルトガル船が運んできたカボチャを大分県ではずっと長い間、栽培し続けていましたが、今ではどこの農家も栽培しなくなっていました。ところが、最近になって福岡県豊前市にある三毛門というところで、大分県に伝えられたこのカボチャがまだ数軒の農家で栽培されていることが判明しました。発見者は大分県農林水産部の普及員のNさん。そしてNさんによって「宗麟かぼちゃ」と名付けられたのです。この「宗麟かぼちゃ」も「日本かぼちゃ」なので甘みが少なく人気は今ひとつなのですが、加工品を作ればヒットするのではないかと考えられています。大分県ではこのようにして再発見された「宗麟かぼちゃ」を全国に売り込もうというプロジェクトが大詰めを迎えているんですよ。
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