奈良・鎌倉 大仏百科
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大仏の雑学


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移り変わる三大大仏

時代によって変わっていきますが、常に日本三大大仏と呼ばれるものがありました。そのどの時代にも、変わることなく奈良の大仏と鎌倉の大仏が挙げられています。時代ごとの日本三大大仏と呼ばれたものを紹介していきましょう。奈良と鎌倉の大仏の他にはどこの大仏が挙げられていたのでしょうか。

江戸時代の三大大仏

江戸時代の日本三大大仏に挙げられるのは、奈良の大仏、鎌倉の大仏の他に、京都方広寺の「京の大仏」と呼ばれる、かつて存在していた大仏です。

豊臣秀吉
が作った大仏

豊臣秀吉が奈良の大仏にならって作られたのがきっかけになります。1595年には大仏殿も完成し、高さ19mの木製の金漆塗挫像の大仏が安置されましたが、1596年に起きた大きな激震で、まだ開眼供養をする前に大仏は倒壊してしまいます。1598年、開眼供養を待たずして秀吉は命を落としますが、同じ年に大仏のないままの大仏殿で開眼供養が執り行なわれました。

豊臣秀頼
が作った大仏

秀頼が秀吉の意志を継いで、再度大仏の建立を手がけることになりますが、1602年、過失による出火で大仏殿を失います。1612年に、徳川家康の協力もあり、大仏殿と銅製の大仏が完成します。1614年には梵鐘も完成しますが、1662年の地震で大仏がわずかに破損し、木造で作り直されることになります。

このときに出た銅は寛永通宝に使われています。これから130年以上経過した1798年、雷が大仏殿に落ちて、本堂、桜門と共に大仏も焼失してしまい、二度と再建されることはありませんでした。こうして江戸時代に三大大仏の一つとして数えられた京の大仏は永遠に姿を消すことになります。

戦前の三大大仏

兵庫大仏戦前の三大大仏と呼ばれたものは、奈良と鎌倉の大仏の他に、兵庫県の能福寺にあった兵庫大仏です。現在ある大仏は、この戦前に三大大仏と詠われた大仏を1991年に再建したものになります。

兵庫大仏

兵庫県の、天台宗の寺院、能福寺は、新西国三十三箇所23番札所でもあります。大商人の南条荘兵衛の寄進により、1891年に大仏が建立されました。しかし、1944年、時代柄、金属が不足しており、金属回収令で政府の要請で差し出さなければなりませんでした。如来像が戦いの一部になったという、現在では考えられない出来事なのです。

こうして姿を消した兵庫大仏は、平成になってから再建されていますが、再建後も三大大仏であると言い続けていることには異論があるようです。現在ある兵庫の大仏は、奈良の大仏と同じ廬舎那仏で(胎蔵界大日如来像)で、重さ60t、高さが11m、台座が7mにもなる巨大な大仏です。

現在の三大大仏

高岡大仏現在の三大大仏は、奈良と鎌倉の大仏の他、残りの一つを巡って様々な意見があります。戦前のまま兵庫の大仏とする意見や、日本寺の大仏、岐阜の大仏、牛久大仏、東京大仏、赤田の大仏とする意見です。

あまりにも数多くの意見があるので、3番目の大仏がこれといいきれるものではないのですが、一般的に、現在の三大大仏といえば、富山県の大沸寺にある高岡大仏と言われています。

高岡大仏

高岡大仏は、銅製の阿弥陀如来像で、日本の三大大仏の一つに数えられる他に、越中三大大仏(富山三大大仏)の一つでもあります。1221年に源義勝が5mの大仏を二上山の麓に作ったのが始まりです。1609年には高岡市の大手町に移されますが焼けてしまいます。

のちに再建されますが、全部で2度の焼失にあい、現在のものは1932年に造られたものです。1980年には補修が行われて現在の場所に落ち着きました。大仏の大きな台座の中には廻廊が巡らされ、中央の部屋には1900年に焼けてしまった木造の高岡大仏の頭部が安置されています。

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