様々な二条城

いくつもの二条城

私たちが知るのは、徳川家康が江戸時代に作った二条城ですが、ここでは徳川家康以前の二条城と呼ばれるものを扱います。現存しているものはなく、石碑がたっているだけになります。

足利義輝の二条城

足利義輝室町幕府第13代将軍・足利義輝の居城と言われていた二条城がありました。現在の上京区武衛陣町、平安女学院のあたりの旧地に、永禄2年から3年にかけて作られた邸宅で、城郭風になっていました。

義輝はこの場所に幕府を置き、堀の拡張などを行って、防衛への強化工事中、松永久秀、三好三人衆に襲撃されます。義輝自ら応戦しますが無念にも命を奪われ、二条城にも火が放たれました。

永禄8年のことで、永禄の変と呼ばれる事件です。義輝と二条城なきあとは、菩提を弔うために、二条城があった場所に真如堂が建てられましたが、現在では『此附近 斯波氏武衛陣 足利義輝邸 遺址』と彫られた石碑が建っています。

ページの先頭へ

足利義昭の二条城

足利義昭室町幕府、最期の将軍、第15代将軍足利義昭の住んでいた二条城です。織田信長を後ろ盾にして将軍に就き、永禄12年、義輝同様、三好三人衆に襲撃されます。

義昭の側近や、そのとき京にいた信長の家臣らによって、奮戦の結果、防戦に成功します。しかし、この一方を受けた信長は、防備の整っている城の必要性を感じ、義昭のために城を築くことに決めました。

元々あった二条城を中心に、堀を二重に、天守が三重になった城郭造りの邸宅にしました。村井貞勝と島田秀満を大工奉行に、信長自信が現場で指揮をとる普請総奉行とする熱の入れようで、約70日間という短い工事期間で築城され、石垣には京都中から集められた墓石や石仏まで使われたのです。急いで造られた割には、とても立派な城だったと言われています。

室町幕府の終焉

武田信玄像城を築城するまで足利義昭に熱を入れていた織田信長ですが、徐々に二人の関係は悪化していくことになります。義昭が武田信玄に対し、信長追討令を出し、三方ヶ原の戦いが起こり、勝利をおさめます。

三方ヶ原の戦いの翌年には、義昭自ら二条城において、信長に対して兵を集めて行動を起こします。対する信長は町屋を焼き払い、二条城を包囲しましたが、城そのものには攻撃をしかけませんでした。

その後、和議が成立するものの、4ヵ月後、再び義昭は宇治の填島城から信長に対して填島城の戦いと後に言われる戦いを挑みます。二条城には指のために、義昭の側近である三淵藤英、伊勢貞興、公家の高倉永相、日野輝資らがおかれましたが、信長軍に城を包囲されると、戦わずして降伏しました。このときに二条城は信長兵に奪われ、破壊されてしまいました。

義昭もこの直後に填島城で降伏し、畿内から追放され、室町幕府に幕が下ろされました。このときに破壊されなかった門や天守は、築城中の安土城の建築資材として、解体されてしまいました。現在では、平安女学院の敷地内に『旧二条城跡』という石碑がひっそりと建っています。

ページの先頭へ

織田信長の二条城

織田信長足利義昭が失脚した後の織田信長が室町御池上ル付近に建てた城です。建てたというよりも、先にあった建物を大幅に改修したといった方がいいでしょう。

京に滞在した信長は、二条にある妙覚寺に宿泊していました、この寺の隣には、二条家があり、庭の眺めが素晴らしいことを信長は気に入っていました。

二条邸は、『洛中洛外図』という、京都の市内やその郊外の名所や風俗を描写される絵画には、必ず登場するくらいの名所でした。二条氏は新しい邸宅に移りすんでいて空き家となっていたため、信長が上洛したときの宿泊所とするために、この二条邸を譲り受けて改修する旨、京都所司代の村井貞勝に命じています。

翌年、織田信長入邸、その翌月には改修が全て終わり、この『二条御新造』を上洛したときの宿泊所としました。のちに誠仁親王に献上し、『二条新御所』となります。

本能寺の変

本能寺天正10年、本能寺の変が起こります。信長の跡取り息子、信忠は、本能寺にいる信長と合流しようとしますが、村井貞勝らに本能寺はすでにおちたことを知らされます。

敵の攻撃を防ぐには二条新御所がいいということで、誠仁親王らを非難させ、信忠、貞勝らが籠城して明智勢と戦うのですが、無念の打ち死に。隣接する妙覚寺と共に、二条新御所も焼き払われていましました。

現在では、両替町通御池上ルに『此附近 二条殿址』の石碑が、室町通御池上ルに『二条殿御池跡』の石碑があります。

ページの先頭へ

豊臣秀吉の二条城

豊臣秀吉豊臣秀吉も、二条第と呼ばれる城を構えていました。本拠地を大阪とした秀吉は、京都の拠点として『二条第』を構えたのです。妙顕寺を移転させて造られているので、『妙顕寺城』とも呼ばれていました。堀をめぐらし、立派な天守もあったことから、邸宅ではなく、城そのものだったのでしょう。

ページの先頭へ