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二条城の庭園

二条城には3つの庭園があります。江戸時代からある二の丸庭園、明治時代に造られた本丸庭園、そして昭和に入ってから造られた清流園があります。全部を見学できるわけではなく、非公開エリアもありますので、立ち入り禁止になっているエリアには絶対に入らないようにしなければいけません。

二の丸庭園

二の丸庭園は、二条城が造られたとき、その概観に合わせて作庭したと言われています。行幸のときには、一部改修されています。書院造り庭園でもあるこの庭は、神泉蓬莱の世界を現していると言われています。

御水尾天皇行幸のときには、行幸御殿、中宮御殿、長局を増築し、中庭的な庭園として改修されました。池の中に御亭を建て、大広間、黒書院、行幸御殿など、三方向から庭を観賞できるように庭が造り直されたのです。

二の丸庭園 二の丸庭園

その後の二の丸庭園

二条城に将軍不在という期間が、なんと229年もの長い間に渡り、庭園も荒れていったことでしょう。徳川吉宗の時代に一度改修が行われています。

第15代将軍・慶喜が二条城に入城した頃には、庭園に樹木はほとんどなかったそうです。池も干上がっていて、枯山水のようでした。大政奉還移行は、二条城の所管が何度も変り、宮内省に所管が落ち着いてからは5回以上の改修が行われました。

離宮として使われている間の改修では、それまでの幕末の庭園とは全く違う庭のような大規模なものが行われ、現在につながる基本となる庭園になったと言われています。

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本丸庭園

本丸にも二の丸同様、創建当初には庭園がありました。二の丸庭園に引けをとらない立派なものだったと言われています。本丸御殿を消失したときに、庭園にも飛び火して焼けてしまったと言われています。

幕末には慶喜の居室が建てられたので、それに合わせて茶庭風に庭園も造られました。しかし、この居室は老朽化が激しく、明治14年に撤去され、同時に庭園も取り壊されたのです。

やがて旧桂宮邸を本丸御殿として移築する際に、枯山水の庭園が作庭されたのです。

本丸庭園 本丸庭園

現在の庭園

現在の庭園は、明治天皇が本丸に行幸した際に、それまであった枯山水風の庭園の改造を命ぜられました。おおそよ7ヶ月半かかって大改造した庭園は、芝生を敷き詰めた芝庭風築山式庭園になりました。曲線的な園路に庭石や燈籠が置かれ、とても落ち着いた庭になりました。

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清流園

清流園は昭和になってから造られた庭で、二条城が創建された当初は、その場所に天守閣と場内通路があったのではないかと言われています。天守閣がなくなった後は、幕府の役人の住居が建てられ、幕末までこの住居群があったことが確認されています。

これらの住居群は明治に入ってから取り壊され、緑地に整備されました。大正時代に入ると、大正天皇即位の饗宴の儀の会場として、施設などが作られました。大正5年に施設が移築・撤去され、その後造園家、小川治兵衛の手により、疎林式庭園に造りなおされました。

その後進駐軍によってテニスコートにされたりもしましたが、昭和40年、清流園が作庭されて現在に至ります。

和洋折衷庭園

清流園は、和洋折衷の作りになっています。河原町二条にあった旧角倉了似の屋敷の一部や庭にあった石や木をただで譲り受け、更には全国から集めた銘石、社会奉仕や慈善事業を熱心に行っている人からの寄贈を受けたりして完成しました。

庭園は当時の市長によって『清流園』と名づけられました。庭を半分に、東側は芝生が敷き詰められた洋風の庭園で、反対側の西半分は、建物二棟を含めた池泉回遊式山水園になっています。

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庭園の管理

昭和14年に二条城が京都市に下賜されてからは、庭園の維持・管理は市の職員が行っています。二条城には蘇鉄が植えられていて、江戸中期の徳川吉宗の時代には、15本の蘇鉄が植えられていたことが分かっています。幕末写真に、現存する蘇鉄と同じ位置のものがあり、同じものだとすると樹齢150年以上の蘇鉄ということになります。

蘇鉄の防寒養生

蘇鉄蘇鉄は暖かい国の植物なので、寒さに弱いです。毎年11月下旬~12月初旬になると、蘇鉄の幹にこもや藁をまいて、防寒養生を行います。二条城が宮内省で所管していたときから引き継がれ、65年以上続く庭園管理作業で、二条城の冬の風物詩にもなっています。

松の葉むしり

松の葉秋の終わり頃から春先まで行われる作業で、古くなった松の葉をむしる作業です。枝ぶりを十分に吟味して選定し、手作業でむしっていきます。こうした一つ一つの手作業が、美しい庭園を守っているのです。

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