修学旅行や旅行ツアーで二条城に行ったことのある人は、お城の中にも入ったことでしょう。それは二条城の二の丸御殿ですね。本丸御殿は滅多に公開されていなかったので、よっぽど運とタイミングがよくなければ中を見ることはできませんでしたが、耐震性の不足から、2007年の春を最期に公開が中止されています。
二の丸の中心になる建物が二の丸御殿です。東大手門から入ると右斜め前方にある建物です。塀で囲まれた二の丸御殿に入るには、塀の南側にある唐門から入ることになります。正面には二の丸御殿の玄関にあたる、車寄が見えます。それではこの車寄から見ていきましょう。
二の丸御殿の「車寄」(右手前)、「遠侍」
二の丸御殿の玄関、車寄が唐門から目に入ります。かなり豪華な装飾がされていて、欄間に施されている彫刻は、表と裏では柄が違います。
表の彫刻には、鸞鳥が5羽、松、ボタンが彫られていて、上の部分には雲がたなびき、下の部分には笹が生い茂っている様を表しています。
屋根の部分は桧皮ぶきになっていて、床は四半敷きで牛車で直接中に入れるようになっています。
車寄の後ろには遠侍の間があります。ここは城にきた大名の控え室で、二の丸御殿の中では一番広い床面積で、約1046.1㎡あります。1611年に、徳川家康と豊臣秀頼が会見したと言われているのも、この遠侍だったと言われています。
この部屋は、朝廷から使者がきたときに対面するための部屋です。上段、上座には勅使が、下段、下座には将軍が座って対面しました。
老中が城にきた大名と挨拶する場所です。持参した将軍への持参品も、ここで取り次ぎが行われました。南半分がこの式台の間でしたが、北半分は老中の執務室で、老中の間と呼ばれていました。
大広間は一の間から四の間まであります。
一の間は48畳もの広さがあり、続く二の間は44畳です。二の丸御殿の中では、最も格式高い部屋になり、第15代将軍・徳川慶喜が、諸大名を前に、大政奉還を発表した歴史に残る部屋でもあります。
二の間は、御水尾天皇の行幸で、能の見所としても使われました。
なお、三の間は大名の控え室として使われ、厚さ35cmの一枚板になっているヒノキの両面透かし彫りがあります。
大広間四の間は、将軍が上洛したときに、武器庫のように使っていた部屋のことを言います。
黒書院は、関が原の戦い以前から、徳川の家臣だった大名や、徳川家一門や分家で大名になっている、親藩の大名などの、内輪の対面場所で、部屋に規模も小さく、より親しい間柄でなければここで話すことはできないでしょう。襖絵なども、とても美しい作品になっています。
白書院は、将軍がプライベートな時間を過ごす部屋です。寝室や居間として使っていました。襖絵なども、落ち着いた水墨画になっています。
本丸御殿
二条城の中に、16800㎡の大きさを誇る本丸ですが、その象徴が本丸御殿になります。創建当時の本丸御殿は、二の丸御殿と同じくらいの大きさを誇っていましたが、雷によって消失し、再建されることはありませんでした。
その後、第15代将軍慶喜の住居として新たに建てられましたが、これも明治14年、撤去されることとなります。
現在の本丸御殿は、旧桂宮邸御殿を京都御苑今出川御門内から、明治26年から1年かけて移築したものです。京都御所にあった当時は、第14代将軍家茂の正室であった皇女和宮が1年8ヶ月暮らしていたという邸宅でもあります。これまでは、年に2回公開されていましたが、残念ながら現在は一般公開されていません。