京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある江戸時代の平城、それが二条城です。京都観光の定番コースにも入っているので、ご存知の方も多いでしょう。二の丸御殿では、歴史に残る重大発表が行われたり、とても重要な歴史の場面を見守ってきたお城なのです。
二条城は、1994年に、ユネスコの世界文化遺産、『古都京都の文化財』の中の一つとして、世界遺産に登録されました。
もちろん数多くの国宝や、数え切れないほどの重要文化財もあります。
二条城のある場所は、かつて平安京の大内裏だった位置の南東端と、そこから南にあった、神泉苑という、天皇の庭園の跡にまたがる位置にあります。
二条城は歴史の始まるとき、その歴史が幕を閉じる瞬間を静かに見つめてきました。徳川家康が征夷大将軍に宣下されたとき、また、徳川家による政治に終わりを告げるときもまた、二条城は見守っていました。歴史の幕開けと終焉を見届けているお城は、二条城以外には存在しないでしょう。
二条城、二の丸御殿の大広間において、大政奉還が発表されました。それまで幕府を統治していたのは徳川家でした。
第15第征夷大将軍・徳川慶喜が、明治天皇に対して大政(統治権)の返上をし、翌日には天皇が、その上奏を許可したという歴史的事件です。
この大政奉還は慶応3年10月14日に上奏され、翌15日に勅許されたものです。歴史に残る大事件でもありました。
幕末、薩摩藩と長州藩は薩長同盟を結び、倒幕運動を進めていました。日本国家に議会制度を導入しようとしていた土佐藩が、将軍・徳川慶喜に対して大政奉還の意見書を提出したのです。
慶応3年10月13日、徳川慶喜は二条城にきている40藩の重臣を集め、大政奉還に関しての意見を聞くことになります。
翌々日には天皇からの勅許によって、大政奉還が成立したのですが、岩倉具視ら倒幕派によって、討幕の密勅が出されようとしていたときでしたので、徳川慶喜に先を越された形となりました。
10月24日には、将軍職の辞職も慶喜は申し出ています。朝廷に政権を渡しても、政治を動かす力はないとにらみ、いずれ徳川家が政権の実権を握れると見通してのことでした。
西暦 | 年号 | 出来事 |
1601 | 慶長六年 | 徳川家康が、西国の諸大名に、二条城の築城を命じる。 |
1603 | 慶長八年 | 二の丸御殿部分が完成。家康完成後すぐに入城。 |
1611 | 慶長十六年 | 二の丸御殿において、徳川家康・豊臣秀吉が会見。 |
1614 | 慶長十九年~ | 大阪の役が勃発。二条城は大御所の本営となり、家康は二条城から大阪に出陣した。 |
1624 | 寛永元年 | 行幸を迎えるため、家光が二条城の改修・拡張を行う。 |
1626 | 寛永三年 | 本丸御殿、二の丸御殿、天守完成。 10月25日から5日間、行幸が行われる。 |
1634 | 寛永十一年 | 30万7千の兵を引き連れて家光入城。 |
1750 | 寛延三年 | 8月、雷により、天守消失。 |
1788 | 天明八年 | 1月、大火により本丸御殿、隅櫓消失。 |
1862 | 文久二年 | 家茂上洛に備え、二の丸御殿の改修、本丸の仮御殿建設。 |
1863 | 文久三年 | 229年ぶりの家茂入城。 |
1866 | 慶応二年 | 慶喜、二条城において第15代将軍職を継ぐ。 |
1867 | 慶応三年 | 10月、上洛していた40藩の大名を集め、大政奉還の諮問。 翌日、慶喜が二の丸御殿大広間にて大政奉還発表。 |
1868 | 明治元年 | 1月、内閣にあたる太政官代が城内に置かれる。 |
1871 | 明治四年 | 二の丸御殿内に、京都府庁が置かれる。 |
1884 | 明治十七年 | 7月、宮内省の所管になり、二条離宮となる。 |
1893 | 明治二十六年 | 京都御所から旧桂宮邸を移築し、本丸御殿とする。 |
1897 | 明治三十年 | 二の丸御殿の破風金具、入側小屋、廊下周り格天井の貼付絵の新装。 |
1915 | 大正四年 | 二条城で大正天皇の即位の大典が行われる。 清流園の位置に大饗宴場を造営。 |
1939 | 昭和十四年 | 宮内省が京都市に対して、二条城を下賜。 |
1940 | 昭和十五年 | 2月11日より、恩賜元離宮二条城として一般公開開始。 |
1952 | 昭和二十七年 | 二の丸御殿六棟を文化財保護法の制定により、国宝に。 本丸御殿、隅櫓など二十二棟が重要文化財に。 |
1965 | 昭和四十年 | 清流園作庭。 |
1982 | 昭和五十七年 | 二の丸御殿障壁画が重要文化財になる。 |
1994 | 平成六年 | ユネスコの世界文化遺産に登録される。 |