二条城のように、日本のお城は美しいという印象を与えてくれます。世界遺産にも登録されている、兵庫県にある姫路城の美しさは素晴らしいものがあります。
今に残るお城や、復元されたお城を見て、私たちは一つの観光名所としてしかとらえていないかもしれませんが、本来お城はどんな目的で作られたものなのか、長い歴史の中には様々な出来事があり、美しいだけではなく、悲しいことも数多くありました。
そんなことを思いながら観光すると、違う視点から見ることができるのではないでしょうか。
城と呼ばれるもの、また、それと同等のものは古代の昔から存在していました。城は長い歴史の中で、数万も存在し、時代と共にその数も減り、現在に至っています。これまでのお城の歴史の中で、どんなお城があったのでしょうか。
弥生時代、日本には城の概念の元ともなる、集落の周囲を堀で囲った環濠集落、山の上などの高い場所に作られた要塞集落の、高地性集落が数多くありました。
城が文献上ではじめて登場するのは、664年に築かれた水城でみずきと読みます。当時の城と言う字は『き』と読むことも多かったのです。
この時代、九州北部から瀬戸内海沿岸にかけて、数多くの城が築かれました。7~9世紀にかけての東北地方では、行政拠点と軍事拠点を兼ねた城柵も多く築かれました。城壁の建築技術が高度ではなかったため、柵などで代用していました。
中世になると、お城造りの技術が発達してきます。戦国時代の初めまでは、山城が多く、敵に攻められた際には、要塞として山城に籠り、拠点としていました。
領主が普段いる場所は、山の麓に建てられた館で、まわりには堀をめぐらせ、門には櫓を立て、館と言いながら、実際は城としての機能をしていました。
館の周囲には家来の住居や町民の住居があり、町並みが形成されていました。戦国時代中期以降になると、山城ではなく平地に築かれた平城や、丘陵に築いた平山城が主流になり、飛躍的にその数も増えていきます。反面、山城の数は減っていきます。
この時代、現在にも残るような典型的なお城の形になっていきます。石垣、天守、櫓などの形式が見られるようになり、織田信長や豊臣秀吉らの作ったお城では、これらの他にも枡形、馬出、城門といった形式が完成します。
江戸時代には、一人の大名が一つのお城しか持つことのできない、一国一城令が出され、多くの城が破却されました。そのほとんどが、中世的な山城だったということです。家臣らの城も処分したため、家臣を自分の城の周辺に置き、そのため商工人も集め、こうして城下町が形成されていきました。
城はどのような構造で造られているのでしょうか。一つ一つ見て行きましょう。
城の周りをぐるりと囲む廓(くるわ)は、堀や土塁、石垣で囲うことをいいます。この廓をいくつも連ねることで城が成り立っていました。『郭』とも呼ばれ、有名なのは函館の五稜郭があります。
江戸時代になると、廓は『丸』と呼ばれるようになります。二条城にもあるように、本丸、二の丸などと呼ばれるのがそうです。防御の中心になるのは本丸で、他に二の丸、三の丸が設けられるのがほとんどでした。
城の周りに掘られる堀は、水が入っているものだけではなく、水のない空堀などもありました。土塁は土を盛って外壁にし、上に柵や塀をつけることもありました。
土塁の斜面には防御のため、逆茂木を置くなどしていました。石垣は、土塁の表面に石を積んで強度を増した石垣が多く、これは上に櫓を建てる必要性があることからきています。
門の上に作る櫓、廓の角に作る櫓などがあり、この櫓から矢を射って応戦するためのものです。櫓のある門を櫓門や楼門と呼び、廓の角にあるものは隅櫓と呼ばれていました。
廓を仕切る役割や、防御の役割をするのが塀です。矢や弾丸を射るための狭間(さま・はざま)と呼ばれる小さな小窓が開けられています。
虎口(こぐち)はお城の出入り口のことを言います。虎口の堀の対岸に、皿に堀で囲まれた小さな廓を作り、これを馬出と呼んでいました。
お城の中心的存在となる建物のことで、一般には天守閣と呼ばれています。形式、形状はお城によって多種多様になっています。