奈良・鎌倉 大仏百科
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東大寺大仏殿

東大寺の大仏殿は奈良の大仏が中に鎮座している建造物で、木造建築では世界最大のものになります。現在ある大仏殿は2代目になり、当初のものではありません。現在でも世界最大級の木造建築ですが、創建時は現在の大仏殿よりも大きかったのです。

大仏殿の創建時は今より大きかった?

東大寺大仏殿

大仏殿は、大仏の開眼供養会のあとに作られた物ですが、現在の大仏殿の規模よりもはるかに大きいものでした。これまでに二度焼け落ちて、現在の大仏殿は江戸時代に再建されたものですが、創建当初の大仏殿の大きさは幅が86.1mもあったのです。

現在の幅は57mですので、これよりはるかに巨大な建造物だったのです。聖武天皇がどれだけ東大寺の建立に力を入れていたかが伺えます。前回は昭和54年に41億円もの費用をかけて屋根の大修復がされました。その前は80年近く前の明治時代になります。

大仏殿の柱の穴の大きさ

大仏殿の柱

大仏殿の内部、奈良の大仏に向かって右の柱には四角い穴があいています。これは、奈良の大仏の鼻の穴と同じ大きさになっていて、この穴をくぐると無病息災のご利益があると言われています。観光客や修学旅行生でにぎわっているときにくぐるのは勇気が必要かもしれませんが、狙い目は朝早くがいいでしょう。昔の日本人の体型でしたら軽々とくぐり抜けることができましたが、現在では日本人の体格も大きくなり、引っ張って貰わなければくぐり抜けることは困難のようです。

2度再建されている大仏殿

現在でも十分すぎるほどの大きさを誇る大仏殿ですが、創建当初の巨大な大仏殿から数えて、現在の大仏殿は2代目になります。創建当初の大仏殿は1181年の平重衡の兵火により、大仏殿をはじめとする数多くの堂塔を焼失しました。このとき大仏の頭と手が転げ落ちてしまいました。

1185年に俊乗坊重源という僧の尽力により、後白河天皇も出席した大仏開眼法要が、1190年には源頼朝が出席する大仏殿再建の落慶法要が行われました。戦国時代に入り、1567年には再び兵火により、前回よりも大規模な堂塔の焼失を受け、大仏はドロドロに溶け、もちろん大仏殿も焼け落ちてしまいました。

焼け野原となった東大寺と無惨な姿になった奈良の大仏は、そのまま100年以上も野晒しの状態になるのです。その後1691年に大仏が、1709年には大仏殿が、江戸時代の僧、龍松院公慶の尽力によって再建されることになるのです。

龍松院公慶

公慶は、100年以上も手つかずで野晒しになっていた東大寺を再建するべく、日本諸国を勧心(寄付を募る)しながら旅を続けます。それは並大抵のことではなかったでしょう。諸国を回り、資金を集め、ようやく大虹梁という大仏殿の屋根を支える梁を柱上に据えるという一番重要なところまでこぎつけることができました。そして上棟式を翌年に執り行ない、盛大な祝いの会も開かれたのです。

工事途中でしたが、このまま滞りなく工事が進むことを見抜いた公慶は、これまでの習慣に習って伊勢詣りに向かいます。そこから奈良に戻らずに、東大寺の再建に関してとても協力的だった第5代将軍綱吉の母君、桂昌院の病を見舞うために江戸へと向かいます。江戸について程なくして桂昌院はなくなりますが、僧である公慶はそのまま江戸に留まり、供養を続けました。

暑い夏の時期でしたので、公慶は体調を崩し、突然の下痢で体力を消耗し、翌日には命を落としてしまいます。大仏殿の工事は順調に進んでいたのに心残りだったことでしょう。公慶は弟子達によって奈良に運ばれました。再建に尽力を尽くした東大寺にとむらうことを弟子達は願いでますが、元々東大寺は天皇家の寺であるため、それが許されず、東大寺の近くの五劫院にとむらわれ、現在もひっそりと眠っているのです。

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