奈良・鎌倉 大仏百科 > 鎌倉の大仏 > 高徳院と鎌倉の大仏
鎌倉の大仏は高徳院という寺院にあります。高徳院も鎌倉の大仏も揃って謎や、分からないことの多いのにもかかわらず、奈良の大仏と並んで有名なものです。いつ、誰が、なんの目的で作った寺院か分からない高徳院は、謎だらけの寺院です。鎌倉の大仏も、造った人物が誰なのかということも、資料が少なく、あくまでも「説」になっています。
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高徳院は浄土宗の寺院で、神奈川県鎌倉市長谷にあります。このため、鎌倉の大仏は「長谷の大仏」ともいわれるのです。鎌倉の大仏である阿弥陀如来を本尊としています。正式な名前は「大異山高徳院清浄泉寺」と言います。 開基や開山が不明の謎の多い寺院なのです。草創(創建という意味)は鎌倉市の材木座にある光明寺の奥の院を移したものであるという説がありますが、これも資料が乏しく定かではありません。 現在は浄土宗ですが、かつては真言宗で、密教系の僧が住持となっていましたが、やがて建長寺の末寺となって臨済宗になります。江戸時代に入り、浄土宗関東総本山である材木座の光明寺の末寺となり、このときに浄土宗に改められました。 鎌倉の大仏を本尊とする高徳院は、先にも述べた通り、いつ誰がどんな目的で建てられた寺院なのか不明なのです。鎌倉の大仏も造られたきっかけに諸説がありますが、資料があまりにも少ないために、信憑性があるのかどうかは一概には言えません。一つ言えるのは、元々鎌倉の大仏を管理していたのは高徳院ではないようだと言うことです。清浄泉寺が管理していましたが、後に廃寺になり、増上寺の祐天という僧が高徳院を再興し、鎌倉の大仏である如来像を本尊とするようになったのです。 『鎌倉や 御仏なれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな』これは有名な与謝野晶子が鎌倉の大仏を詠ったもので、境内には歌碑もあります。この鎌倉の大仏は一体だれが作ったのでしょうか。一説によると、発案は源頼朝とされています。 奈良の大仏を見た頼朝が、鎌倉にも巨大な仏像を造ろうと考えたことによります。しかし、頼朝の存命中は願いが叶わず、北条泰時の晩年の頃、浄光という僧が、勧進しながら鎌倉の大仏を造ることをすすめていったと鎌倉時代の歴史書、「吾妻鏡」に記載されています。 木造の鎌倉の大仏「吾妻鏡」によると、造られた当初の大仏は、現在と違い木造でした。その大きさは高さ24mもあり、かなり巨大な大仏だったのです。奈良の大仏殿のような、巨大な大仏殿もありました。この木造大仏完成から、わすか15年足らずで現在のような青銅製のものに鎌倉の大仏は生まれ変わっています。それは何故でしょうか。 1243年に完成されたと言われている木造の大仏は、嵐による風であっけなく倒壊してしまいます。こうしてすぐに現在の姿の鎌倉の大仏が再建されるわけですが、後に造られた大仏殿は、室町時代の大波によって倒壊し、以後再建されることなく今日まで至っています。 鎌倉の大仏は元々大仏殿の中にあったものが、現在では大空の下にいる理由です。現在では、露座している鎌倉の大仏で親しまれているのもあり、大仏殿の再建はおそらくないでしょう。鎌倉の大仏自体も大がかりな修復がされておらず、ほぼ鎌倉時代のままだと言われています。 吾妻鏡に記載されているからといって、どうして大仏殿の存在が確たるものとされたのでしょうか。それは高徳院の境内の発掘調査で、大仏殿の基礎を据えた根固め遺構が発見されたからです。これにより、吾妻鏡に記載されていたことが事実であることが証明されたのです。資料には60個あるとされているものが、7ヶ所で発見され、大仏殿の規模も明らかになったのです。 [ スポンサードリンク ]
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