日本ではどのようにガラスが伝わり、利用されていったのでしょうか。
日本のガラスの歴史は、大きく分けて2つに分かれます。神仏のために使われた時代と生活のために使われた時代です。
これから日本のガラスの歴史について、見てみることにしましょう。
日本にガラスが伝わったのは、弥生時代といわれています。最も古いといわれる弥生時代のガラス玉の遺跡が見つかっています。
日本で作られたものかどうかは、わかっていません。
けれど、ガラス炉が発見されていて、2.000年前には確実に日本でガラスの成形や加工が行われていました。
飛鳥・奈良時代(7~8世紀)には日本でガラスの原料が作られるようになりました。
鉛ガラスが普及し、たくさんのガラス製品が使われていました。
手の込んだガラスの器は輸入品ですが、まが玉のような祈りの象徴や宝物のようなものは日本で作られています。
1549年、フランシスコ・ザビエルが来日したとき、ガラス製品が伝わってきました。
このとき、ガラス工芸品こそが位の高い人にぴったりの贈り物だと認められました。
その後、海外との交渉が活発になり、びいどろやフラスコといったガラス製品が普及することとなります。
元禄時代(1688~1703年)の終わりになると、不況になりました。
何とか不況を打破しようと商品の改良や新商品の開発が進められました。
その後、1708年イタリア人宣教師、シドッチが屋久島に来ました。
シドッチが来たことで、大坂では西洋文化を商品化しようと思いつきました。
この思いつきからガラス製品の開発が進められ、ガラス容器やガラスレンズの利用、メガネの普及など実用的な利用法が広まりました。これらの商品は、京都・江戸・長崎にまたたく間に伝わりました。
江戸時代のガラスは熱に弱くてすぐに割れてしまうものでした。
しかし、大坂・京都・江戸・長崎では長いこと愛用されてきたのです。それはなぜでしょうか。
西洋では陶磁器よりもガラス容器の技術が発達していました。
これに対して、日本では陶磁器類や漆器類がさかんに作られていて、ガラス容器は使われていませんでした。
ガラスはすぐに壊れるもの。壊れてもまた加工すれば使える、そんな考えのもとで使われていたのです。
ですからこの再利用の流れができあがる、大きな都市ではガラス容器が普及したんですね。
なぜこわれやすいガラス容器が普及したのかというと、生活用品としてではなく、遊びのもの、飾りのようなものという感覚が強かったのではないでしょうか。ですから、高級な贈り物として贈られたり、お客様をもてなすために用いられたのです。
古いガラス製品を見てみると、時代ごとに変化しているのがわかります。
小さくて薄くて軽い、吹きガラスの製品が出回りました。
型吹きガラスの大きな製品が登場しました。のちに模様を吹き込むことができるようになると、宙吹きガラスが人気になりました。
大坂の高級なガラスに対し、江戸では安いガラスの大量製品が始まりました。
薩摩藩でガラスの製造販売を開始しました。
江戸のガラスは、粗っぽいつくりにより、衰退期を迎えます。
安政6年、横浜・函館・長崎の自由貿易開始により、ますます人気がなくなりました。
大坂のガラスも、薩摩藩のガラス製造販売開始や欧米からの輸入によって、大きな打撃を受けることになります。
輸入されてきた欧米のガラスは丈夫で壊れにくいものでした。
それに比べると江戸のガラスはとても壊れやすいものですから、輸入されてきたガラスのほうが人気になるもの当然といえるでしょう。
明治時代になると、ガラスくずが輸入されるようになりました。これによって、東京のガラス職人が、安いガラスを製造するようになりました。一方政府では、ガラスの発展のためには、ガラス職人が作るのではなく、工場で作るのが良いと考えていました。
機械を導入したり、外国から技術を教えてくれる人を呼ぼうとしたところ、東京のガラスが人気になったのです。
このとき、東京のガラス屋さんは親方が数人の弟子を持っているものでしたが、明治時代には小規模の企業になるほど発展したのでした。
江戸時代には鉛分の多く、もろいガラス製品を作ってきました。
しかし、欧米のガラスくずが輸入されると、割れにくいソーダーガラスを作るようになりました。
明治20年頃に工場が作られましたが、日本ではじめて作られた品川のガラス工場は、明治25年には経営不振により幕を下ろしました。