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茶道の流派は数多くありますが、その中でも千利休を祖とする千家の本家になります。門弟数は裏千家の半数ほどになりますが、裏千家、武者小路千家と共に、『三千家』と呼ばれています。京都市上京区に宗家があり、表千家の名前の由来は、表千家の象徴でもある茶室『不審庵』が通りの表にあることに由来しています。
茶の湯を確立した千利休が亡くなった後、二代・千少庵、三代・千宗旦と続いていきます。宗旦の三男・宗左が、宗旦が隠居した後に不審庵を継承し、千家の直系を継ぐことになります。一方宗旦は、屋敷の裏に現在の裏千家を象徴する『今日庵』を建てて隠居場所にしました。
宗旦が亡くなると、四男の宗室が今日庵を受け継ぎ裏千家となり、次男の宗守が養子先から千家に戻って一家を起こし、武者小路千家となります。
こうして、表千家・裏千家・武者小路千家の三千家が出来上がっていきました。
四代目・宗左は、1642年に徳川御三家である紀州徳川家に茶頭として仕えました。それ以降、明治になるまで、表千家の歴代家元は紀州徳川家の茶頭を務め、200万石という、中級武士並みの俸給を受けました。宗左は後西天皇から親翰を拝領したり、東福門院(徳川和子・徳川秀忠の娘で後水尾天皇の中宮)から御作の香合を拝領したりと、御所や公卿との交流もありました。
六代目・覚々斎は紀州藩から将軍になった徳川吉宗からは桑原茶碗を拝領し、九代目・了々斎は紀州藩10代藩主・徳川治宝の庇護を受けていました。
徳川治宝は風雅を愛し、『数寄の殿様』と呼ばれていた人物で茶道にも通じており、了々斎が晩年になると家元を治宝として茶会を開いていました。
現在ある表千家の表門は、不審庵に治宝が御成りするにあたり、紀州徳川家が建てたものです。
こうして表千家は紀州徳川家からは特別の待遇を受けていました。やがて紀州藩主から庶民にまで茶道が広がり、現在でも盛んです。和歌山市三木町には『紀州藩表千家屋敷跡』の碑があり、当時を偲ばせています。
三井家は、現在では三井財閥として有名ですが、三井家の発祥の地が御三家紀州藩の領地であった伊勢松坂で、紀州徳川家と強いつながりを持っていました。それまで大名など、藩主を門弟としていた表千家でしたが、経済の実権を町人が握っていた江戸中期には、三井家のような富裕層の町人を門弟として多く受け入れました。
こうしたことから、これまでの組織のあり方や指導方法では対応しきれなくなり、新たな指導法や組織が生まれます。それまでの門弟は藩主らでしたが、町人を受け入れたことで表千家も町人文化の影響を受け、それまでと違った茶風に変化していきます。
新たなに生まれた組織が現在にも伝わる家元制度です。
家元となる当主が直属の門弟に稽古をつけて教授料を納めさせ、門弟は自分の弟子に稽古をつけて教授料を納めさせ、その一部を家元に上納金として納めます。そして弟子が自分の弟子に稽古をつけ……。
こうして家元を頂点にしたピラミッド型組織が作られました。
原則として、家元が許状(稽古することを許可する書面)の発行権を独占していて、組織の中間にいる師匠は自分よりも上位の師匠に許状の発行を申請し、その師匠は家元へと発行申請を行います。このとき、御礼として申請の費用も納める義務があります。こうすることで家元の権威を保ち、独立して分派することを防ぎ、経済的な基盤も同時に確立することができました。
新たな茶風としては、それまでの利休や宗旦のような極端に小さな茶室は顧みられなくなり、改築されるたびに拡張されていきます。茶道具も侘び茶の精神の目立たない質素なものから、蒔絵が施された華やかな棗が使われるなど、時代を下る程派手になっていきます。
明治時代になると、形式にのっとって行う茶道は古い時代の遺物として全く見向きもされなくなっていきます。時代の流れと共に紀州藩の庇護もなくなり、茶道は存亡の危機にさらされることとなります。表千家も危機的な状況になりますが、家元制度をとっていたこと、三井家という強力な後ろ盾があったことなどから、裏千家のような思いをせずに済みました。
1906年には失火で家元の建物を全焼しましたが、再建まで5年もかかってしまいます。
その後、再び茶道の人口が増えだし、大正時代には八畳敷きの松風楼、昭和中期には八畳と十畳二間続きの新席が建て増しされています。第二次世界大戦後は飛躍的に茶道人口が増加しましたが、裏千家が大部分を占め、表千家はその後をいく形となりました。
表千家は千家の本家でありながら裏千家の勢いに押され、三千家に上下関係はないとまで言われるようになっています。表千家同門会を設立しましたが、裏千家の淡交会の組織力には遠く及びません。