越後の虎といわれ、戦国武将として名高い人物でした。戦も強ければ、たてる戦略も勝利へと導くものばかりだったのです。そのため、強さを強調する虎と呼ばれたのでしょうか。
『越後の虎』と呼ばれていましたが、この他にも『越後の龍』とも呼ばれていたようです。いつからこのように呼ばれ始めたのか、資料が残っていないため分かりません。ただ、謙信になるまでの改名歴を見ていくと、必ず『虎』の字が入っているので、もしかしたら『越後の虎』と呼ばれる方が多かったのかもしれません。
元々は上杉姓ではなく、長尾という姓を名乗っていました。始めの幼名は長尾虎千代と言いました。元服すると、長尾景虎と名乗るようになります。1561年、永禄4年に正式に関東管領に就任し、上杉政虎となります。その翌年には輝虎と改名することになります。1570年12月には『不識庵謙信』と称するようになります。
手取川の戦いに大勝し、織田信長を窮地に立たせました。3月13日に上洛のために春日山城を出る準備をしていたとき、お手洗いで倒れ、そのまま還らぬ人となります。大のお酒好きで、脳卒中で倒れたと言われています。謙信辞世の句は『四十九年 一睡夢 一期栄華 一杯酒』意味は『49年の我が生涯は、一睡の夢に過ぎなかった。この世の栄華は、一杯の酒に等しい』義理人情に厚かった最期です。
亡き後、養子の景勝と景虎が家督相続を巡って争いを起こします。『御館の乱』です。景勝の母は、謙信の姉の仙桃院です。余命は卯松といい、父・政景亡きあと、謙信に招かれて春日山城に入り、養子となり、21歳のときに景勝と改名し、謙信に弾正少弼に任じられています。一方景虎の方は、小田原北条氏康の七男で、謙信と氏康が越相同盟を締結したときに、養子となりました。
御館の乱勃発
葬儀の日、景勝は謙信の遺言だとして、春日山城の本丸と金蔵、兵器蔵を占拠しました。そして24日になると、自分は後継者であると周囲に報じました。景勝は城にある金三万両を手中にしたのです。一方景虎は、春日山城を、妻子を伴って脱出し、謙信の前の関東管領であった、上杉憲政の御館に立てこもり、景勝に対抗しました。これによって、越後の国を二分にしての争いになってしまうのです。家督争いは最初、景虎が郵政だったのですが、資金を手中にしていた景勝が、外交政策や政略などで景虎よりも優位に立ち、景虎を追い詰めることになって、最終的には勝利します。上杉家は景勝が跡を継ぐことになります。現在では、兄弟で相続を巡って兵を出して戦うなど考えられませんが、それが当たり前の時代だったのです。上杉景勝によって家督が継がれることになった上杉家は、本能寺の変の跡に豊臣秀吉の臣下になり、秀吉が亡くなると、徳川家と対立しながらも存続し、米沢に本拠地を移されてからも、江戸時代の終わりまで、続いていくことになります。
景勝の人柄
景勝は、矢弾飛び交う戦場でも、高いびきで眠ったと言われています。そしてとても律儀であったと言います。伏見の堀や船道の工事も一生懸命に精を出し、関が原で家康に正式に降参した後も、いやな顔一つせずに、運役などを一生懸命に務めたと言われています。養子とはいえ、実の姉の子供でもあり、血のつながりはあるので、この剛直で律儀なところはおそらく、謙信に似たのではないでしょうか。新発田重家討伐の際、家臣たちは近道をしようとしますが、景勝は急がば回れの心がけを説き、あえて遠回りをしました。案の定、近道をしていれば新発田勢の待ち伏せにあっていたところでした。その後、討伐に成功しています。景勝は、こうして武将としての勘や沈着、豪穀なところを持ち合わせており、これも最強の戦国武将と呼ばれた謙信譲りだったのではないでしょうか。ただ、養父である謙信が築きあげた大大名の地位を、徳川政権の下で、平凡な一大名となってしまったのはいかがなものだろうか。