武田信玄と上杉謙信といえば、長いこと川中島で戦ったという因縁の仲でもあります。12年の間に5回も戦うことになるのですが、最後は両者退陣という形でこの戦いには幕が下ろされています。
川中島の合戦は、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名、武田信玄と、越後の戦国大名、上杉謙信との間で、北信濃の支配権を巡って戦われた合戦です。一番大きな戦いになった第4回目の合戦が、千曲川と犀川が合流した平坦地で、三角上の川中島(長野県長野市南郊)を中心に戦われたことから、これ以外の場所で行われた合戦も、川中島の合戦と総称して呼ばれています。
川中島の合戦は12年の間に5回も行われました。第1戦目となったものは天文22年で布施の戦い、または八幡の戦いと呼ばれています。第2戦目となったものは、天文24年、犀川の戦いと呼ばれているものです。第3戦目は上野原の戦いと呼ばれるもので、決着はつきませんでした。第4戦目になるのが一番大きな戦いとなり、川中島の合戦というと、この第4戦目のことを指すことがほとんどです。永禄4年に戦われ、八幡原の戦いとも呼ばれています。第5戦目が最期の合戦になります。永禄7年、塩崎の対陣と呼ばれているもので、双方にらみ合い、決着がつかないまま退陣となったのです。
八幡原での一騎打ち
川中島の戦いの中では一番大規模なものになりました。この戦いで、武田信玄との一騎打ちがあったと言われています。景虎も、名前を上杉政虎と改めています。乱戦の中で信玄の本陣は手薄となり、そこに政虎が斬り込みをかけました。政虎は腰掛けている信玄に、三太刀に渡って切りつけたと言われています。信玄は、軍勢を配置し、指揮するときに使う軍配でこれをしのぎますが、肩先を負傷したと言われています。信玄勢の者が駆けつけ、政虎は信玄を討ちもらすことになりました。
4度目の戦いで山本勘助没
4度目の合戦では、上杉勢に武田勢は不意をつかれてしまい、かなりの劣勢な戦いになってしまいます。山本勘助は武田二十四将の一人で、伝説的な、優秀な軍師だったと言われています。この4度目の戦いのとき、山本勘助のたてた戦略が、見事なくらいに謙信に読まれており、裏をかかれて劣勢な戦いになってしまいます。自分の失敗によって武田軍崩壊の危機にあると責任を感じた勘助は、自ら敵中に突入していきます。そして、四方八方から槍を打ち込まれて命を落とすことになります。
信玄をかなり嫌っていたと言われています。自分の父親を追放したり、敵をあざむき、貶めたりする信玄が、道徳観に反していると毛嫌いしていたのです。戦国時代ですので、当たり前と言えば当たり前の行為だったのですが、どうしても許せなかったのでしょう。上杉謙信が武田信玄の死を聞いたのは食事中のことでした。日本外史によると、『吾れ好敵手を失へり、世に復たこれほどの英雄男子あらんや』と言って、箸を落として号泣したと言われています。『信玄亡き今こそ武田攻めの好機』と家臣らが攻撃をすすめるのですが、『勝頼風情にそのような事をしても大人気ない』と退けたと言われています。これらは後世の創作の可能性が高いのですが、人間性が垣間見れるようですね。
『敵に塩を送る』という言葉があります。敵の弱みにつけこまないで、反対にその苦境から救うという意味ですが、これは上杉謙信の言葉からきているものです。武田信玄の領地でもある、甲斐と信濃は内陸なので塩が採れません。敵対していた信玄が今川氏真(いまがわうじざね)によって塩止めを受けてしまいます。これを知り、氏真のやったことを卑怯な行為と批判しました。そこで、自分は戦いで決着をつけるつもりだからと、越後の塩を送ったと言われています。ここから『敵に塩を送る』という言葉が生まれたと言われています。