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盗賊になった忍者

忍者の活躍の場は、群雄割拠の戦国時代にあったといわれています。孫子にいわく「敵を知り己を知れば百戦危うからず」、敵の情報を完全に把握することは兵法において最良とされています。つまり、喉から手が出るほどに欲しい敵の情報を入手できる忍者は、まさに値千金の存在だと言えます。しかし、豊臣秀吉によって戦国時代が終結したことによって忍者の活躍の場は奪われてしまったのです。

盗賊に転身した忍者たち

スパイとして活躍していた忍者にとって、天下泰平の世は非常に暮らしづらい物であったのは確かです。武将に仕えて諜報活動で功を上げるのが飯の種であったにもかかわらず、肝心の諜報活動の必要が無くなったのです。伊賀忍者や甲賀忍者は、徳川家に仕えたり豊臣家に仕えたりと再就職口を得られたのですが、他の流派の忍者は失職したままであることが多かったのです。

戦いの無い時代の忍者たち

仕事を失った忍者たちは、糊口を凌ぐために転職の必要があったのです。武士として仕官できるものは仕官先を求めて浪人になり、変装の一環で行商人を演じていたものはそのまま行商人に、刀や手裏剣を作っていたものは鍛冶屋にと手に職があったいわゆる「潰しの利く」者は、転職先を早々に見つけることが出来ました。しかし、「潰しの利かない」者たちは忍術の技術と知識で糊口を凌ぐしかありません。何処かの大名や官僚に取り立てられれば上出来で、場合によっては大道芸人やガマの油売りで身を立てていくしかなかったのです。

盗賊稼業に身を落とした忍者たち

しかし、中には誰かに従うことも媚びることも嫌だという者もいます。そういったプライドの高い忍者たちは、忍者としての能力を活かして市井の民衆になるよりも面白おかしく生きて行ける職業を選んだのです。そうして、盗賊に転身する忍者が生まれたのです。忍者の能力は厳重な警備の屋敷にも忍び込むことは可能です。忍者の持つ兵法の知識を活かせば、取締りを行う奉行所を出し抜くことも造作も無いことといえます。こうして、忍者の能力と欲求が合致することで、盗賊として生きる忍者が生まれていったのです。

忍者出身の盗賊たち

では、盗賊として生きる道を選んだ忍者にはどのような人物が居るのでしょうか?

伝説の忍者・風魔小太郎

風魔小太郎は、関東随一の有力武将である北条氏に代々仕えた風魔忍者の頭領です。北条氏は戦国時代において「下克上」で立身出世して一国一城の主となった、いわば立志伝中の人物である北条早雲から続く大名でした。安定した内政と強い兵を誇り、秀吉が総力を投入した小田原討伐まで独立戦力として存在し続けた名門だったのです。しかし、小田原征伐で北条家が滅んだことで風魔忍者たちは路頭に迷うことになります。そこで、小太郎が選んだ道が盗賊だったのです。

風魔小太郎とはどんな忍者だったのか

「風魔小太郎」と言う名前は、風魔忍者の頭領に代々引き継がれる称号であったと言われています。盗賊に転向したのは五代目風魔小太郎であったと言われています。生年は不詳で、その外見も一説によれば「身の丈は七尺二寸(約220cm)、口は裂け牙が四本、頭は長く花も高い、群集に隠れることが出来ずその声は五十町先(約5.5km)まで届く」というおよそ人間とは思えないものであったと言われています。というか、男性平均身長が160cm前後の時代にこんな大男が忍者をやっていたら目立つことこの上ないので、これは風魔忍者自身が流した虚構であると考えるのが自然でしょう。

盗賊への転換

風魔忍者は、北条氏の下で諜報活動や工作活動に従事していたと言われています。しかし、北条氏が滅んだことによって風魔忍者は仕える主を失ってしまいます。その後秀吉による大胆な大名の配置転換で、北条氏の旧領地には徳川家康が入ることになりました。しかし、家康には既に服部半蔵率いる伊賀同心が配下に居るため風魔忍者が食い込む余地はありません。主人を失い食い詰めた風魔忍者は、盗賊になる道を選んだのです。

風魔小太郎の最期

風魔小太郎の指揮の下、風魔忍者たちは江戸の町を荒らし回ったと伝えられています。徳川家も風魔忍者の動きには頭を抱えていたのです。しかし、そんな風魔小太郎たちを面白く思っていない一人の男が居ました。男の名は高坂甚内。武田氏に仕えた高坂弾正の子供とも、武田氏の擁する忍者・甲斐透波の残党であるとも、剣豪・宮本武蔵の弟子であったが辻切りを行おうとしたため破門されたとも伝えられています。高坂甚内もまた、武田氏が滅んだことによって忍者としての職を失ったため盗賊に身をやつしていたのですが、風魔忍者になんらかの恨みを持っていたと言います。高坂甚内は「憎き風魔小太郎め、よくも忍者の頃から盗賊稼業の今日まで俺の邪魔をしてくれたな」とばかりに、徳川家に風魔忍者の風体からアジトまでを密告したのです。この密告によって徳川家は風魔小太郎を筆頭とする風魔忍者一党を捕らえることに成功し、慶長8年(1603年)に処刑されたと言われています。

風魔忍者のその後

風魔小太郎の捕縛・処刑によって滅んだかに見えた風魔忍者でしたが、一部の残党は生き残っていたと言われています。その風魔忍者の残党は、江戸の町で商売を始め成功を収めたとされています。彼らの代表格である、後の吉原を作り上げた庄司甚内と現在の日本橋富沢町にその名を残す鳶沢甚内の二人は、前述の高坂甚内とあわせて「三甚内」と呼ばれるようになったと言われています。高坂甚内は、風魔小太郎が捕らえられた10年後に盗賊として捕らえられ処刑されたという記録が残っています。

天下の大泥棒・石川五右衛門

では、盗賊として生きる道を選んだ忍者にはどのような人物が居るのでしょうか?

石川五右衛門の存在の是非

石川五右衛門は長い間、「架空の存在である」と言う説と「実在の人物である」と言う説の間に挟まれてきました。存在を証明できる史料は江戸時代に作成されたものなので、豊臣政権期の事を正確に記していない可能性が高かったからです。また、歌舞伎や浄瑠璃などの演劇は事実を題材にしつつも脚色が入り混じっているため信頼性はそれほど高くないためです。しかし現代に入って、当時日本に滞在していた外国人の残した手記が発見されたことで五右衛門の存在は確定したのです。その史料は、20年に渡って日本に滞在した貿易商のアビラ・ロランによる「日本王国記」で、「かつて京都を荒らし回った盗賊が居たが、捕らえられ釜茹でにされ処刑された」という記述があったのです。その記述には当時日本に滞在していたイエズス会の宣教師による注釈があり、「この事件は1594年に起きたことで、処刑されたのは「Lxicava goyemon」とその家族9人余りであった」と記述されているのです。つまり、何をやったかはともかく石川五右衛門という盗賊が処刑されたことに異論を挟む余地はないと言うことになります。

石川五右衛門の武勇伝

石川五右衛門が、歌舞伎や浄瑠璃で親しまれたのはその破天荒な振る舞いが権力者に向けられていたことにあります。当時の豊臣政権下では富は一極集中され、庶民や商人よりも大名がお金を持っていた時代です。その上、様々な法令で縛り付けられていた庶民にとっては大名の元から大金を掠め取る五右衛門は義賊に見えたのです。例えば、大名からの使いになりすまして国家老から大金を受け取り逐電、お家騒動につけ込んで大金を強請りとると、見事な手際で大名たちから富を奪い取っていったと言われています。

なぜ石川五右衛門は忍者なのか

石川五右衛門は、五郎吉と名乗っていた頃に忍者の修行をしていたと伝えられています。五右衛門が師事していたのは、伊賀忍者の頭領である百地三太夫で家族と離別した十代の頃に弟子入りしたと言われています。しかし、忍術を学べば学ぶほど五右衛門の中の悪の虫が騒いでいきます。遂には密かに通じていた三太夫の妻と共に金を盗んで駆け落ちしてしまいます。一説によれば、三太夫の妻にそそのかされ、三太夫の愛人を手に掛けたとも言われています。しかし、五右衛門は三太夫の妻と添い遂げる気はなかったのでさっさと捨てて逐電したようです。この時に習得した忍者としての技能が、後の天下の大泥棒・石川五右衛門の礎になっていったと見るのはごく自然なことでしょう。

石川五右衛門の最期

天下の大泥棒としてその名を知られていた五右衛門は、あるミスを犯したことで捕縛されてしまいます。秀吉の居城である聚楽第に忍び込んだときに、銘器「千鳥の香炉」が鳴いたことで侵入を気付かれたのです。ただしこれには異説もあり、廊下の鴬張りで音を立てたからであるとも言われています。なぜ五右衛門が聚楽第に忍び込んだかについては、「千鳥の香炉を盗むため」「秀吉の甥・秀次から秀吉への襲撃を依頼された」などの説があります。五右衛門が捕縛された後、一味だけでなく五右衛門の家族までもが捕らえられ全員が処刑されることになりました。特に五右衛門とその家族については大釜での釜茹でとされました。この時五右衛門は、自分の子供を力尽きるまで持ち上げていたとも、熱さに耐えかねて釜に沈めて踏み台にしたとも言われています。何しろ、釜に注がれていたのは水ではなく油だったのです。釜茹でにされながら詠んだとされる辞世の句が、有名な「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」なのです。現在、立って入る湯船のことを「五右衛門風呂」と呼ぶのは、この釜茹での計に由来していると言われています。

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