江戸時代を舞台にした忍者物のフィクションには、必ずと言って良いほどに服部半蔵が登場します。この服部半蔵という忍者は、一体いかなる人物だったのか気になります。 アニメや映画などでお馴染みである、もっともポピュラーな忍者「服部半蔵(はっとりはんぞう)」の人物像に深く迫っていきましょう!
フィクションなどで取り上げられる伊賀忍者筆頭としての「服部半蔵」は、正式には服部石見守正成(はっとり・いわみのかみ・まさなり、まさしげ)と言います。この服部正成は、1542年に生まれ1596年に没するまで徳川家康に仕え、武将として様々な武功を打ち立てたといわれています。
では、服部正成はなぜ「服部半蔵」を名乗っていたのでしょうか。服部氏というのは、伊賀の出で百地・藤林に並ぶ伊賀忍者の頭目であったというのが定説となっています。遡れば、服部氏の祖先は聖徳太子が大伴細人と共に使っていた「志能備」であったとも言われています。このように、由緒ある忍者の血統である服部氏のトップに立つ者が受け継ぐのが「服部半蔵」の名なのです。つまり、「服部半蔵」は世襲制の役職なのです。
では、伊賀忍者のリーダー格である服部半蔵は徳川家の家臣となったのでしょうか? それは正成の父である服部保長の代で家康の生地である三河国に渡り、家康の祖父である松平清康に仕えるようになったからなのです。つまり、服部正成自身は伊賀で生まれ育ってはいないのです。
忍者になるためには幼少期からの修行が不可欠ですが、伊賀から三河に移り住んだことで服部正成自身は忍者としての修行を受ける機会は無かったと考えられています。服部正成が得意としたのは槍で、同じく「半蔵」の名を持つ同僚の渡辺半蔵守綱と合わせて「鬼半蔵」「槍半蔵」と呼ばれる猛将であったと言われています。つまり、私たちが知っている忍者としての「服部半蔵」のイメージは、後世が作り上げたものなのです。
そして、忍者としての「服部半蔵」のイメージに最も寄与したと考えられているのが家康三大危機に数えられる「伊賀越え」です。この伊賀越えは、叛旗を翻した明智光秀によって織田信長が本能寺で討ち取られた「本能寺の変」に端を発します。信長を討ち取った光秀は、家康・秀吉などの有力武将を討ち天下を取る準備に入っていました。堺から京都に向かっていた家康は、本能寺の変を知り一刻も早く自国へ帰らなくてはならなくなったのです。この時、家康が連れていた家臣はわずか30人程度。家康たちは明智勢の追っ手と、褒賞目当ての地元の土豪たちの襲撃に会わぬように帰途を急ぐという離れ業をしなければならなかったのです。この時、家康を助けたのが伊賀忍者頭領としての「服部半蔵」だったのです。
服部半蔵正成は伊賀忍者頭領としての立場を活用して伊賀忍者に渡りを付けて、伊賀を抜けて三河に帰るためのルートの使用と道中の警護を伊賀忍者に行わせることに成功します。このルートは、伊賀忍者しか知らなかったものであったため家康一行は安全にかつ早急に三河に帰国できたのです。この功績により、かつて信長によって離散していた伊賀忍者たちを家康が同心として召抱えることになり、伊賀忍者たちを服部半蔵が統率するということになったのです。後に江戸に徳川幕府を開くことになった際には、伊賀同心たちは服部半蔵の下で江戸城西門の警護を行うようになります。これが現代にもその名を残す「半蔵門」の由来なのです。
忍者として最高の武勲を立てた服部半蔵は、本能寺の変の後はどのような生涯を送ったのでしょうか?
前述の通り、服部半蔵正成は慶長元年11月4日(現在の暦で1596年12月23日)に没しています。そして、徳川家康が江戸城に幕府を開いたのが慶長8年(1603年)のことで江戸城の大幅な改築が行われたのは徳川幕府樹立以降とされています。つまり、服部半蔵正成は半蔵門を守ることが出来なかったことになるのです。しかし、徳川家が三河から関東に領地を移すことになったのは天正18年(1590年)のことなので、ギリギリで半蔵門を守れていたかもしれません。
半蔵正成が没した後、「服部半蔵」を受け継いだのは正成の長男である服部正就(父と同じ読みのはっとり・まさなり)で、徳川家に仕えた三代目「服部半蔵」を襲名したのでした。しかし、父親が立派過ぎるとその反動で息子がボンクラかドラ息子になるのは世の常のようです。半蔵正就は、父から引き継いだ伊賀同心たちをひどく冷遇したのでした。先代の半蔵正成は、伊賀同心たちを仲間と考えていたようですが半蔵正就は伊賀同心たちを自分の部下としてしか見ていなかったのです。伊賀同心たちも、さすがに最初の内は半蔵正就を「偉大な父親の重責を引き継いだのだから」とある程度は鷹揚に見ていたのかもしれません。しかし、半蔵正就のボンクラぶりは只事ではありませんでした。
伊賀同心を自分の部下としてしか見ていなかったので、半蔵正就は自分の住居の壁の塗り替えに伊賀同心200人を動員し、「サボったら減給」という余りにも余りすぎる仕打ちに出たのです。これには流石に耐え忍ぶのに慣れている筈の伊賀同心たちも耐えられなかったようです。伊賀同心200人全員が寺に籠もって当時の筆頭老中であった本多正純に「スイマセンもうダメですこのボンクラ首にしてください」と泣きを入れたのです。この訴えを受けた幕府は、半蔵正就を罷免にして伊賀同心たちの所属を変更することになりました。この裁定に納得いかなかった半蔵正就、「こんなことになったのも伊賀同心たちが悪い」と、本多正純の元に代表として訴えに行った二名の伊賀同心を逆恨みして町を徘徊し始めました。半蔵正就は、首謀者の一人と思しき者を見つけ、ズバッと切り伏せて溜飲を下げた……と思いきや、半蔵正就が切ったのは伊賀同心とは無関係で、かつて「伊賀越え」の一行に参加していた現・関東郡代の伊奈忠次の部下であったからさぁ大変。「自分の甲斐性の無さで部下に見放されただけでなく、逆恨みで無関係の人間に害を為すなど武士の風上にも置けぬ」と蟄居閉門を受けてしまったのでした。そして、後の1615年に起こった「大坂夏の陣」、半蔵正就は家名復興を掛けて参戦したのですが戦いの中で消息を断ったのでした。一説には恨みを抱いていた伊賀忍者たちによって討たれたとも言われています。
半蔵正就の代で、三代に渡り徳川幕府に仕えた服部半蔵は断絶してしまいました。しかし、服部半蔵が絶えたわけではありませんでした。正就の弟・正重と正就の嫡男・正辰は浪人の後に正就の義兄であり家康の異父弟にあたる桑名藩主松平定勝に仕えるようになり、正辰が「服部半蔵」の名を受け継いだのでした。こうして、武士としての「服部半蔵」は徳川幕府の終わりまで松平家に仕えたと言います。
服部半蔵は徳川家という体制側に仕えた忍者であった為か、フィクションの世界で引っ張りだこの存在であるといえます。「真田十勇士」などの豊臣残党を主人公に据えた作品では悪役に、「服部半蔵・影の軍団」などでは幕府に巣食う悪と戦う正義の忍者として、様々な姿で描かれています。クエンティン・タランティーノ監督の「キル・ビル」では、「服部半蔵・影の軍団」で半蔵を演じた千葉真一が「忍者から足を洗った服部半蔵」役で登場し、「カタナがヒッツヨウで…」と尋ねて来たユマ・サーマンに日本刀を与えるというキーパーソンを演じています。また、格闘ゲームなどでも服部半蔵をモチーフにしたキャラクターが登場するなど、「忍者・服部半蔵」はフィクションの世界で今も活躍しているのです。