トップページ >> 忍者にまつわる雑学 >> 松尾芭蕉の忍者説
松尾芭蕉は、日本文学史において大きな足跡を残した俳人であると言えます。芭蕉の作品でもっとも有名なのは「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり。」の序文で始まる句集「奥の細道(正確には「おくのほそ道」)」でしょう。そんな芭蕉と「奥の細道」にはある疑惑が存在してい,ます。
歴史に残されている松尾芭蕉の足跡は、芭蕉の生涯の節目そのものと言っても過言ではないでしょう。しかし、それゆえに芭蕉の実態があやふやになっているという指摘も成り立つのです。
芭蕉が生まれたのは寛永21年(1644年)のことで、出身地は伊賀国であると伝えられています。生家は百姓でしたが、姓を名乗ることを許されていたと言います。この当時、姓を名乗れたのは武士階級と、「土豪」と呼ばれる一部の農民階級であったといわれています。芭蕉が生まれた伊賀国は言わずと知れた忍者の里です。伊賀忍者の上忍や中忍の中には姓を名乗れる身分のものも居たことが、「芭蕉=忍者」説に拍車を掛けているのでしょう。
芭蕉より二歳年上だった良忠は芭蕉と主従の関係を越えた友情を育み、共に俳人として高名だった北村季吟に弟子入りしたのです。しかし、四年後に良忠が夭折してしまいます。これにショックを受けた芭蕉は藤堂家を去り、俳人としての道を歩み出します。最初の句集である「貝おほひ」を上野天満宮に奉納したのち、31歳の時に江戸に出たのです。その後、芭蕉は俳諧宗匠として武士や商人に俳句を指導するようになります。そして延宝8年(1680年)に、深川に庵を作って移り住みます。この時弟子から芭蕉の木を贈られたことをきっかけにして、名をそれまでの桃青から芭蕉と改めたのです。
芭蕉は本来、鎌倉時代の歌人である西行法師の足取りを追う旅を志していたようです。しかし、母親の病没を受け伊賀国へ帰郷したことでその意思は果たされる形になったようです。この帰郷の旅路は「野ざらし紀行」として纏められることになります。また、かつて仕えた藤堂良忠の遺児である良長に招かれ、再び伊賀に赴いた際に「笈の小文」と「更科紀行」を著します。
そして、元禄2年(1689年)、弟子の一人である河合曾良を伴い東北へと旅立ちます。この時詠んだ俳句を集めたのが「奥の細道」です。「奥の細道」は、東北地方の名所を周りその地に入った感動などを詠った俳句を集めた旅日記の体裁を取った句集です。「五月雨を集めて早し最上川」などの名句はこの旅で生まれたものなのです。この東北旅行は江戸を出発して太平洋側を回って日本海側に抜けて、美濃の大垣をゴールとするコースを取っています。この旅の後、芭蕉は京都や故郷の伊賀に滞在していたと伝えられています。
芭蕉は元禄7年(1694年)に江戸から故郷の伊賀を経て、大阪に入る旅に出ます。しかし、大阪に入った後、体調を崩してしまいます。そして11月28日に宿泊先でそのまま帰らぬ人となってしまいます。最期に詠んだ句が、有名な「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」だと伝えられています。
これが松尾芭蕉という俳人が送った生涯であると言われています。では、なぜ「芭蕉=忍者」説が根強く残り続けているのでしょうか? 有力とされる論拠を検証していきます!
「芭蕉=忍者」説の最初の論拠となるのが、この出生地と名字の存在です。この当時、伊賀を収めていたのが「変節漢」と呼ばれた戦国武将の藤堂高虎です。高虎は、織田信長の行った伊賀攻めの影響で散らばっていた伊賀忍者を多数配下にしたと言われています。この時、高虎は伊賀忍者たちを武士として取り立てたので名字を名乗れるようになった忍者が多く出たと言うのが「芭蕉=忍者」説の論拠を補強しているようです。しかし、伊賀出身の有名人である芭蕉の忍者説が出てくるのであれば、同じく伊賀出身の俳優である椎名桔平にも忍者説が出ても不思議ではないはずです。おそらく、この論拠は単純に「伊賀=忍者」「伊賀=芭蕉」「芭蕉=忍者」という三段論法で導かれたのではないでしょうか。
江戸に出てきた芭蕉は、最初日本橋に住んでいたことが判っています。職業的俳人であった芭蕉は、武士や商人に俳句の手ほどきをして生計を立てていたので、彼らが通いやすい日本橋に居を構えるのはごく自然なことです。一方、深川は芭蕉が越して来る前に両国橋が掛かった、いわば江戸の中でも開けていない町でした。商人の町であった日本橋から離れることは、俳諧宗匠としての収入が減少することと同義であったのです。しかし、深川に移り住んだ後の芭蕉は、収入が減少している筈なのに数回に渡って伊賀への帰郷や関西への旅を行うようになっています。
芭蕉の時代、旅行というものはそう簡単に行えるものではありませんでした。各関所での取り締まりと多大な旅費が掛かるため、庶民の立場では旅など夢のまた夢です。関所を自由に通過できる伊勢参りにその夢を託すしかなかった時代だったのです。そんな時代にも関わらず、芭蕉は数回に渡り旅を行っているのです。日本橋時代に知己を得た武士階級の伝手を使って、通行手形を手に入れたとしても旅費をどうやって工面したのかと言う問題が残ります。
そして、「芭蕉=忍者」説の最も大きな論拠となっているのが「奥の細道」の旅です。まず、移動距離と日程から割り出される芭蕉の移動速度が一般人離れしているということが挙げられます。「奥の細道」の旅の総移動距離は約2400kmで、総日程が約150日となっています。これらの数値から一日あたりの移動距離を割り出すと2400÷150=15kmで、当時の単位に換算すると約4里と言う所です。しかし、この総日程にはまったく移動しなかった日が含まれています。つまり、150日ずっと移動していたわけではないのです。この移動しなかった分を取り戻すかのように、一日で50km以上も移動している日があるのです。年齢的には壮年に差し掛かっていた芭蕉が、これほどの移動距離を一日で歩くのは無理があると考えられています。
移動距離だけでなく、日程そのものにも謎があります。まず、「奥の細道」では3月27日に出発したことになっているのですが、同行した河合曾良の記録では3月20日に出発したと記されているのです。また、芭蕉がその感動を「松島やああ松島や松島や」としか詠めなかったと言われる日本三大名所のひとつである松島を、実は芭蕉は素通りしているのです。その代わり仙台藩の重要拠点とされている石巻港などを見物に行っていたことが、河合曾良の記録には記されているのです。また、松島で詠んだとされる句も後年に詠まれたものが芭蕉の句として伝わっているだけで、芭蕉自身は「いずれ誰かが松島の素晴らしさを詠うだろう」としているのです。それもそのはず、芭蕉は松島を一度も訪れなかったのですから。
これらの芭蕉の俳人としての不可解な行動は、忍者としてというより密偵として考えると謎が明らかになります。なぜなら「伊賀出身=忍者というわけではない」と言う点、俳人として名を高めていたこと、旅に何度も出られるほどの資金源と通行手形の出所などを考えると「幕府が公認した密偵として手形と資金を提供されていた」と考えるほうが自然だからです。わざわざ、収入を減少させてまで日本橋から深川に移転したのも、幕府側に都合が良い場所だったからと考えることが出来ます。
芭蕉がこだわった仙台は、独眼竜・伊達政宗の領地であることは有名です。正宗は「あと20年早く生まれていれば天下を手中に収めていた」と言われる、無念と野望を抱いていた武将です。徳川幕府が樹立し三代将軍・家光から慕われるようになってもなお、正宗はその野望を燃やしていたと言う史実も存在しています。つまり、徳川幕府にとっては、仙台藩はある意味で獅子身中の虫と捉えていたのです。しかし、忍者を放てば正宗に仕えていた忍者・黒脛巾(くろはばき)に察せられる恐れがあります。その点、俳人として名が知られていた芭蕉ならば、創作活動を名目にして仙台藩に入り込み要所を見物していても不審がられないという利点があります。つまり、芭蕉は幕府から「仙台藩への綿密な偵察」を条件に東北旅行を許されたのではないでしょうか。この時、カモフラージュの一環として詠まれた句が纏められて「奥の細道」になったと考えるほうが自然なのです。
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