聖徳太子
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聖徳太子の雑学

聖徳太子の雑学と言っても、謎の多い人物なため、全部が全部本当のこととは限りません。一度に十人もの話しを一度に聞き分けたなどという伝説もありますが、これも言い方を変えているのであって、本当に一度に聞いた訳ではなかったようです。

日本に箸を広めたのは?

聖徳太子といえば、十七条憲法や冠位十二階などの政治のことや、数々の寺院を建立して仏教を広めた人物として有名ですが、日本に箸を普及させたのも聖徳太子と言われています。日本に箸が入ってきたのは6~7世紀と言われていますが、誰もが面倒臭いと言って手づかみで食べ物を食べ、あまり普及しなかったのです。きっかけは遣隋使の派遣でした。もちろん衛生面もありますが、太子が隋に持たせた手紙で、これからは対等につきあっていきたいとの意向を示していました。これが手づかみで食事をするとなると面目が丸つぶれになってしまいます。そこで太子は箸を使うことを奨励しました。遣隋使の使節団の歓迎の会では、なんとか全員が箸を使い、恥をかくことなくやりすごしました。これをきっかけに、日本に箸が普及したのです。

法隆寺の修理の周期

聖徳太子が住んでいた斑鳩宮があったとされる法隆寺ですが、建物はどんなものにも限らず風雨にさらされて傷んでくるものです。法隆寺では修理の周期が決められています。100年ごとに小修理を行い、大修理が300年ごとに行われます。檜皮葺きの屋根は30年ごとに葺替えます。100年と300年の他にも小さな修理は行われています。歴史ある建造物だけではなく、建物は大事に修理していれば長い間その姿を保っていられるのです。

お彼岸を考案したのは聖徳太子?

お彼岸にお墓参りをしたり、いつもと違うものをお仏壇にお供えする家庭も多いでしょう。お彼岸は、春分の日を中日と呼び、その前後3日間、計7日間のことをいいます。仏教の行事なのにこの習慣は日本にしかありません。インドにも中国にもないのです。一説によると、聖徳太子が考案し行事という説があります。果たして本当でしょうか。

聖徳太子が手に持っている物は?

聖徳太子の肖像画に描かれている姿を見ると、手に板のような物を持っています。これはシャクと呼ばれるもので、木や象牙で出来ていて、役人や貴族の正装時に立ち居振る舞いに威厳を持たせるために持っていました。これは手板とも呼ばれて、メモの役割もしていたようです。しかし、これを持ち歩くようになったのは奈良時代以降になってからのことで、聖徳太子の時代にはなかったのです。後から描いたものなのか、それとも聖徳太子の肖像画ではないとする説につながるものなのかは謎です。

聖徳太子は名前じゃない!?

このサイトでも、散々【聖徳太子】という呼び方を使っていますが、これは人の名前ではありません。驚かれたのではないでしょうか。【聖徳太子】は「とても徳の高い皇子」という、尊敬の気持ちを持った呼び方にすぎないのです。奈良時代から平安時代にかけてこの呼び方が一般化し、人の名前のように扱われています。

近江八幡の木珠

近江八幡の木珠といえば、木で出来た数珠玉のことですが、その生産の70%がここで作られています。桑、桜、梅などの良質の木がとれるのもその要因になっているのでしょう。近江八幡の木珠の技法は聖徳太子が教えたと言われています。その技術が現在でも受け継がれているのです。

敬老の日

敬老の日ってどうしてできたかご存じですか? 聖徳太子が建立した四天王寺にある悲田院に関係があります。悲田院は社会福祉施設の先駆けで、現在でもその名前でも保育園などの児童福祉サービスの他に、様々な老人サービスを行っています。この悲田院の設立にちなんで、「敬老の日」として祝日に制定されたのです。



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