聖徳太子
TOP>>聖徳太子と政治

聖徳太子と政治

聖徳太子が飛鳥時代の政治家であることは有名ですが、どのようなことを行ったのでしょうか。聖徳太子は政治にはあまり関わっていなかったとする説も最近でていきていますが、どんなことを行っていたのかみていきましょう。

飛鳥時代の政治

飛鳥時代の政治の中心は明日香村でした。6世紀の終わりから8世紀のはじめにかけて、奈良県の飛鳥地方に朝廷がおかれていた時期です。聖徳太子の活躍はもとより、大化の改新もこの飛鳥時代ですし、仏像などの仏教的美術も数多く生まれ、とても優れた飛鳥文化がありました。ここを舞台に、現在の政治にもつながる中央集権国家ができあがるのです。

摂政

聖徳太子が摂政であったということは、私たちは教科書で習いましたね。第33代天皇である推古は、日本ではじめての女帝でした。推古は即位すると、西暦593年に、自分の娘婿でもあり、甥でもある聖徳太子に政治を任せるために摂政として任命しました。摂政とは、女帝であったり、頂点に立つものが子供である場合に、その役割を助けて政治を行う者のことをいいます。太子が摂政になったのは19歳の頃のことでした。

聖徳太子が目指した政治

聖徳太子が目指した政治とは、力を持った豪族といえど、お上に逆らうことは絶対に許さないという、中央集権国家でした。当時は有力な豪族が数多くおり、それぞれが、それぞれの地を治めていました。宮家といえども、絶対的権力があったわけではないのです。それぞれの豪族が皇位継承権を巡って争い、政治も全く統一されていませんでした。当時の日本の政治は、天皇を軸とした豪族の連合国家だったので、天皇といえど、権力のある豪族の同意なくして政治を行うことはできなかったのです。そのときすでに中国では中央集権国家ができあがっていました。皇帝が権力を持ち、絶対的権限のある政治を行っていました。随に日本が支配されることのないよう、基盤をしっかりと持つ必要があり、太子は蘇我馬子と協力し合い、これをモデルとして目指したのです。そのためには、豪族が頂点争いをして政治を担うのではなく、宮家を頂点として政治をまとめていくことを目指したのです。これによって、冠位十二階、十七条憲法というものができていくのです。

聖徳太子が政治に関わった期間

聖徳太子は飛鳥時代の政治家だと習ってきた私たちですが、わかっていることは冠位十二階や十七条憲法の制定、遣隋使の派遣などですね。その他にも様々な著書を残したとされていますが、これ以外にほとんど政治には関わっていなかったとする説もあります。太子が摂政になったのは西暦593年のことですが、590年には「摂政」という官職はなかったとする説もあります。あとからつけられた官職なのでしょうか。確かに四天王寺の建立からはじまり、数々の寺を残していますが、政治とは別として考えるのが妥当でしょう。西暦607年に小野妹子を遣隋使として派遣していますが、620年に書かれた「国記」などは、資料を集めたりまとめたりしたのは蘇我氏であるとされ、聖徳太子は名前だけのものだったようです。聖徳太子が政治に関わった期間は5年ほどだとする説もありますが、真相はわからないままです。

明日香村

明日香村は、中央集権国家の生まれた地であり、現在でも史跡などが数多く発掘されています。明日香村全体を世界遺産に登録しようとする動きまであります。明日香村にある橘寺の馬小屋の前で、聖徳太子は生まれたとされています。太子が斑鳩へ移り住む前は、この明日香村の周辺に居をかまえていました。近隣の村と合併してこの名前になっていますが、かつては「飛鳥」と呼ばれ、現在の明日香村近辺のことをいいます。

聖徳太子と政治


聖徳太子