仏教普及に努めたのは聖徳太子
仏教を推進していた蘇我氏が、仏教を反対していた物部氏を滅ぼしたからといって、日本に仏教を広めたのは蘇我氏ではありません。仏教を日本に広く広めようとしたのはまぎれもない、聖徳太子でした。数々の寺の建立を見てもお分かりかと思いますが、太子が作った十七条憲法の内容も、仏教の教えから来るものでした。しかし、聖徳太子が手がけた十七条憲法は、役人達には理解してもらえなかったようです。それまで、それぞれが政治をおさめていたのに、仏教に基づく決まりの中で、中央集権国家がすんなり受け入れてもらえるはずもありません。そのため、仏教の教えを人々が学ぶ必要がありました。聖徳太子は、斑鳩宮に、仏教を教える学問所を作り、将来ある若い人材に仏教を学ぶ場を作ったのです。このようにして、仏教の布教につとめていた太子でしたが、志半ばで命を落とします。
受け継がれた太子の意思
志半ばでいってしまった聖徳太子ですが、それではどうやって仏教が日本に広まっていったのでしょうか。それは遣隋使達の努力によります。太子が命を落としてから日本に帰った遣隋使達は、若い役人や豪族の子供達に、仏教や儒教を説いていったのです。遣隋使の一因であった高向玄理と南淵請安でした。請安は塾を開き、仏教、儒教の教えを広めようと努めました。蘇我入鹿や中大兄皇子、中臣鎌足らもここで仏教と儒教を学んだのです。聖徳太子の意思は、しっかりと受け継がれていったのです。