日本の歴史の中で、さまざまな小説やテレビドラマや映画の題材にされることの多い時代といえば、まず戦国時代が最初に挙がるかと思います。戦国時代は鎌倉・室町時代以前より資料が集めやすく、誰にでもわかりやすいテーマを持った時代なのです。
群雄割拠の戦国時代の中でも、人気の高い戦国武将の一人として現代でも愛されている人物です。「天下布武」を唱え志半ばで本能寺に倒れた織田信長や、農民の子供から天下人になった豊臣秀吉、下克上の代名詞であり関東の主として君臨した北条氏、三本の矢の教えで知られる毛利元就、九州最強でその名を知られる島津氏と数えだしたらきりがないほど、綺羅星のごとき人物が次々に現れた戦国時代の中でも際立った存在感を発揮しているのです。
人物像
当時の戦国武将の中でも十指に入るであろう戦上手であったことが知られています。しかし信玄はただの戦馬鹿ではなく、治世においてもその才覚を発揮した事もよく知られている稀有な人材であったのです。政治家としての評価は、将来のビジョンを世界にまで広げていた織田信長ほど高くはないものの、当時の武将としては相当に高いレベルでの政治を行っていたのです。
戦の腕前
当時としても高い水準で戦略眼を養っていた武将の一人といえます。中国の戦術・戦略論の最高峰の一つである「孫子」を愛読し、「孫子」に記された戦術の心得である「風林火山」を旗印に使用するなど、当時の武将の中でも実践的な理論を収めていたのです。使用した戦術・戦略などは、後に「甲陽軍艦」として甲州流軍学の礎になり広まっていくことになります。
機知
現代で言えばアイデアマンであったといえます。自国で流通する金貨制度を整えたり、当時の日本では珍しい水洗トイレを設計したりと、政治や戦闘以外の面でもその才能を発揮しているのです。また織田信長からの贈りものが入れられていた箱が厚塗りの漆箱であることから、信長の心情を読み取るなど、とても機知に富んだ人物であったのです。
甲斐
領地である甲斐国(現代の山梨県)は、四方を山に囲まれた土地で海に隣接していないという弱点を持った国でもありました。しかし、武田信玄はそんな甲斐国を大事にしていました。「信玄法度」と呼ばれる法律を制定し、民衆や家臣のみならず自分も厳しく律するバランス感覚は、現代の山梨における武田信玄への愛着につながっているといえます。
武田信玄と上杉謙信
武田信玄を語る上で外せないのが、越後の上杉謙信です。武田信玄と謙信は五度にわたる「川中島の戦い」を行い、まさしく武田と上杉の全力を傾けた総力戦であったといわれます。また、「敵に塩を送る」の故事があるように、謙信も武田信玄も互いに実力を認め合いその信念ゆえにぶつかり合っていたのです。
信玄は、甲斐を愛し家臣や領民を大切にした人物です。堀や石垣で守られ、高く聳え立つ城を好まず館を本拠にしていたという、当時としては珍しい武将であったのです。こうした考え方は人との付き合いにも反映されていきます。
家族
武田家は、鎌倉時代からの「甲斐源氏」の嫡流として存在感を示してきた名家でした。しかし、由緒正しい家系には内輪争いが付き物であるといえます。武田信玄の代以前から、家督争い・嫡流争いで内輪争いを繰り返していたのです。信玄自身も、父・信虎を追放して武田家の家督を継いでいます。こうした内輪揉めがあったからこそ、情を大事にしていたのではないかといわれています。家族として有名なのは、小説や大河ドラマで有名になった「湖衣姫」こと諏訪御料人、悪妻とも言われる三条の方などの妻たち、後に謀反を起こした長男・義信、生まれつきの盲目ゆえに仏門に入った信親、信玄の後を継いだ勝頼などの子供たちがいます。
家臣
現在に名を残したのは、優れた家臣団の存在があったからこそといえます。父・信虎の追放に一役買った板垣信方・甘利虎泰・飯富虎昌・馬場信春などの信虎のころからの重臣たちや、高坂昌信や山本勘助などの信玄の代で迎え入れた家臣など、信玄は能力さえあれば出自に関係なく臣下に引き入れていたのです。こうして集められた家臣たちは後世において「武田二十四神将」と呼ばれることになります。
ゆかりの地
天下統一の野望を強く持っていた武将の一人であったこともあり、たびたび隣国との合戦を行っ
ています。合戦地となった場所や、合戦の傷を癒すために使った隠し湯などが現在は観光地として脚光を浴びています。また、甲斐国の財政を支えた金山なども有名な場所となっています。