フェルナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ(Ferdinand Victor Eugene Delacroix)

フェルナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ(Ferdinand Victor Eugene Delacroix)

  • ロマン主義
  • 1798年4月26日‐1863年8月13日

ロマン主義画家の代表として知られているドラクロワの絵画は、ドラマチックでありながら情熱的な絵画が多いのが特徴です。「ドラクロワ」という名前だけを聞くと、なんだか強そうな怖そうなイメージがありませんか?私だけでしょうか…?絵の色は少し暗い感じがしますが、そこに描かれている人物や状況はまるでドラマのワンシーンのようです。そんな絵を描きつづけた、ドラクロワとはどんな人物だったのでしょうか。

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ドラクロワのプロフィール

1798年、フランスのシャラントン=サン=モーリスという町に外交官の子供としてドラクロワはうまれました。父はシャルル・ドラクロワとされてきましたが、実はドラクロワの本当の父親は外務大臣であった人物だという説もあります。
ドラクロワは3歳でボルドー地方に家族で引っ越し、そこで音楽と文学の才能をみせはじめます。そんなドラクロワが絵画に興味を示したのは1805年に再びパリに戻ってからです。いとこが住んでいたノルマンディー地方でみた絵画にとても感動して、スケッチ画を描くようになったのです。
そして1816年にドラクロワは国立美術学校に入学しました。ここで新古典主義の画法を学びました。デッサンや彫刻の写生など、伝統的なことをドラクロワは学んだのです。
1818年、にはジェリコーの絵画に出会い、ロマン主義の絵を描くようになりました。1822年にはロマン主義の手法で描いた絵画『ダンテの小舟』をサロンに出品し、成功をおさめます。
そしてドラクロワは、1824年には『キオス島の虐殺』を発表します。当時まだ古典主義が中心の時代であったため、賛否両論をまきおこしたのです。しかし、この絵画は国家が買い取りました。この絵画をきっかけに、ロマン主義の運動が活発になっていったのです。
ドラクロワはロマン主義運動の中心的な画家だと世間では見られるようになりましたが、本人はそう呼ばれるのを嫌っていました。1830年頃からのドラクロワは、世間にあまり出なくなり、作品の制作に没頭するようになりました。
1831年には『民衆を導く自由の女神』を発表し、1832年にはモロッコやスペイン、アルジェ(北アフリカ)へ旅行にいっています。この旅行でドラクロワは、オリエンタルなものや豊かな色彩に圧倒され、膨大なメモやスケッチを残してきました。この体験は絵画にも反映されています。
1840年代以降は、政府から依頼された大聖堂や宮殿の図書室の装飾画の制作がメインになっていきました。ドラクロワが50代になるころには有名な画家になっていましたが、体調がすぐれなくなっていました。体調のよい期間には頼まれていた装飾画を完成させ、1863年にパリでなくなりました。

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ドラクロワの絵画の特徴

ドラクロワに描かれている人物たちは写実的であるのですが、題材はとてもドラマチックなものが多いのが特徴です。また、恐怖や苦悩など精神的に極限の状態になっている人間の様子をよく描いています。そのため、時々人の動きがおおげさに見えるときもあるのです。
また、ドラクロワは色彩の研究にも熱心でした。科学者の色彩による論文を読み、原色と補色を隣り合うように色を塗って目立たせています。たとえば、原色が赤ならば補色は緑、原色が黄色ならば紫といったものです。有名な絵画にもこれらの色の組み合わせがつかわれています。

ドラクロワの有名な絵画

ドラクロワは、非常に多くの作品を残している画家です。油絵が853点、パステル画が1525点、デッサンが6629点もあり、それ以外にも彫刻やスケッチブックが多く残っています。数多くのドラクロワの作品の中でも有名な作品を紹介しましょう。
キオス島の虐殺
キオス島の虐殺 - ドラクロワ
この作品をきっかけにして、ロマン主義が活発になっていきました。実際にあったできごとをテーマにして制作されています。ドラクロワは、目撃者に様子を聞き、オリエンタルな服をスケッチし、何度も秀作を描きました。テーマに対し賛否両論がおこったのですが、フランス政府が高額で買い取っています。ルーブル美術館にあります。
民衆を導く自由の女神
民衆を導く自由の女神 - ドラクロワ
この絵画は非常に有名ですね。ドラクロワが生きていたこの時代は、フランスで7月革命がおこっているのです。ドラクロワ自身は参加はしていませんでしたが、「国家のために絵を描く」くらいはしたほうがよいと考え、制作しました。フランス国旗がこの作品をいっそう引き立てています。ルーブル美術館にあります。
アルジェの女たち
アルジェの女たち - ドラクロワ
モロッコや北アフリカを旅行したときに描いたスケッチをもとにして描かれた作品です。オリエンタルな雰囲気に加えて、原色と補色の組み合わせを効果的につかっています。モロッコで体験した光と色の組み合わせが美しい絵画です。ルーブル美術館にあります。
人の精神的極限状態を多く描いていたドラクロワでしたが、ドラクロワ自身は教養があり、物腰がやわらかな素晴らしい人物であったといわれています。しかし、絵画では激しい気性が出ています。そんなドラクロワを周囲の人は「花束の下に巧妙に隠された噴火口だ」といっていました。
ドラクロワと関係がある画家:ジェリコー

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