忍者の神秘性を高めているのは忍法・忍術の存在であると言えます。現代においては、忍術の大半は失伝し、総合格闘技としてその名残を残すのみとなっています。かつて存在していた忍術とは一体どのようなものだったのでしょうか?
忍者が使っていたと言われる忍法は、基本的にフィクションの産物であるといってもいいでしょう。すべての忍者の必修科目である忍術は、現代科学の視点から見ても理に適っているものも数々存在しています。
歴史上、忍法を使いこなしたとされるのが戦国武将たちに恐れられた「果心居士」という人物です。元々は仏僧だったものの、幻術に手を出したことで寺から破門されたといわれる果心居士は、様々な幻を人に見せる能力を持っていました。その能力は、織田信長・松永久秀・豊臣秀吉と言った戦国武将たちの眼前で披露されたといわれています。その幻術はまさに忍法そのものだったので果心居士は忍者でもあったと考えられています。
映画などでの忍法は、巻物を咥えて手で印を結べば発現される不思議な術であるとされています。このイメージは、当時の忍者や侍たちが信仰していた「摩利支天」という神様への祈りや陰陽道・修験道などが結びついて生まれたものなのです。摩利支天は戦いの女神であると言われ、その加護を受ければ勇敢に戦うことが出来るといわれています。修験道は仏教や神道や陰陽道から生まれた独自の信仰で、山に篭もることで神に出会うという独特の考え方を持っています。修験道に帰依したものは、修行の果てに神通力を使えるようになるといわれ、天狗となったとも言われています。陰陽道や修験道は、幻を見せたり式神を使役できたりと言った人間離れした力を持っているため、そのイメージが忍者に輸入された結果忍法が生まれたといえます。
忍法に対して、忍術は非常に現実的な技術であるといわれています。忍者が諜報任務の中で必要となる技術を、長い年月を掛けて研究し洗練させたものが忍術になっていたと言われています。その為、忍術は肉体的な技術だけでなく精神的・心理的な技術をも含んでいるのです。
忍者が忍術を行使できるのは、忍者として実働できるようになるための厳しい訓練の成果によるものです。幼少のころから積み重ねた厳しい訓練によって、常人よりも高められた身体能力と訓練に耐えてきた精神力、訓練によって培われた洞察力や記憶力こそが忍術の源となっているのです。
では、忍術とは一体どのようなものなのでしょうか? それは、「忍者が使う技術を総合的にまとめたもの」です。忍術は、戦術・戦略を組み立てるための兵法、戦うための技術である剣術や柔術などの武術、諜報活動に必要な潜入技術、変装術、心理学に基づく技術などによって構成されています。忍者が超人として扱われることが多いのは、これらの当時としては最先端をいく学問・技術を総合的に学んでいたことが大きいのです。
忍者の活躍した時代というものは、忍術を構成する学問や技術を誰かに師事して学ぶことが簡単には出来ない時代でした。剣術などの武術はともかく兵法ともなれば、名の通った武家でもなければ兵法書にも触れることは出来なかったのです。そんな学びにくい技術を総合的に学んでいる忍者は格好の教師になりうる存在です。しかし、忍者たちは教えを受けたときから「忍術の内容を誰にも教えてはいけない」という命を掛けた誓いを立てているのです。それは忍者の神秘性だけでなく、傭兵としての忍者の価値を高める方法でもあります。この掟に背いた忍者や忍者から教えを受けたものは、その命で償わされたのです。
では、忍術の中でも忍者独特の技術とされているものにはどのようなものがあるのでしょうか?
フィクションにおける分身の術は、実体と同じ動きをする虚像を生み出すこともあれば、実体とはまったく別の動きをすることもあります。前者はともかく、後者は推理小説における双子のトリックのようなものと考えるべきでしょう。前者の場合、人間の目の作用で説明することが出来ます。人間の目は、物を凝視し続けるとその凝視していた時の映像記憶が実際に見えている光景に影響を与えるという特性を持っています。この映像記憶を「残像」といいます。この残像を利用したのがアニメーションなどの動画です。分身の術は、出来る限り速く動くことで相手の目に残像を映し、目の錯覚を起こさせるのです。分身の術は、ただ高速で動き回るのではなく緩急をつけて残像が起こりやすい動きを行えるだけの身体能力が必要となります。
フィクションでは、「火遁の術」は炎を操り相手を攻撃する技のように描かれることがほとんどです。しかし、実際はそうではありません。火遁の「遁」とは「身を隠す」という意味を持っていて、火遁の術とは「火を使って相手から隠れ逃げる」技なのです。現実の忍者が使っていた火遁の術は、煙幕や現場にあらかじめ仕込んでおいた火薬を利用して追っ手に心の隙を作り、その隙を突いて逃げ隠れする技術なのです。
水遁の術は、追っ手から逃れるために川や堀に飛び込んだと見せかけて、水中から呼吸用の筒を出して息継ぎをしながら追っ手が立ち去るのを待つ忍術です。シュノーケルを使って潜水したことがある人ならわかると思うのですが、水中で呼吸することは簡単ではありません。シュノーケルでさえ一つ間違えば水が筒の中に入ってきてしまうのに、忍者が水遁の術で使う竹筒には排水機構なんて上等なものは無いのです。本来の水遁の術は、高い肺活量と潜水能力で水の中に身を潜め、竹筒などで水上の様子を伺いつつ呼吸をしていたのではないでしょうか。
水蜘蛛の術は、木で作られた「水蜘蛛」という道具で水グモやアメンボのように水上を歩くという忍術とされていますが、現代ではこれは嘘であったといわれています。水蜘蛛の術は「万川集海」という江戸時代に書かれた有名な忍法書にも載っているのですが、どうも「万川集海」の作者が軽くフカシこいたんじゃないのかと思えてなりません。そもそも、木製の水蜘蛛では人一人を水面歩行させるための浮力が得られるとは思えません。現代の忍者村では十分な浮力を得られる水蜘蛛を体験できますが、材質が発泡スチロールなどになっていることがほとんどです。木ではなく皮袋を使った浮き輪上のものだったという解釈もありますが、空気を詰める手間を考えるとどうもこれも疑わしく思えます。後年の研究では、水蜘蛛は浮き輪のようにして使う道具であったと考えられています。
忍術の中で重要視されているのが、追っ手から身を隠す「隠形」と呼ばれる技術です。一般的には「隠れ身の術」と呼ばれる隠形は、読んで字の如く「形を隠す」技術で火遁の術・水遁の術などの遁法も含まれています。フィクションにおける隠れ身の術は、カモフラージュ用の布を使って身を隠すものが一般的ですが、現実においては「敵の心理の隙を突いて隠れる技術」なのです。中でも有名なのが「うずら隠れの術」です。鳥の鶉(うずら)のように、身動き一つせず遮蔽物の陰に体を縮こめて息を潜めて追っ手をやり過ごすというすぐにでも見破られそうな忍術ですが、この術が現代まで語り継がれているのには理由があります。うずら隠れの術を行うときは、摩利支天への加護を祈る呪文を唱えて精神統一する必要があるのです。たとえ呪文自体に効果が無かったとしても、精神統一することでじっとしていることが出来るわけです。現代に伝わっている忍術は、虚構と真実が入り混じった迷宮なのです。
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